生長の家総裁・副総裁に中心帰一する意味
 私は生長の家の信徒として、痛感するのが生長の家の信徒は生長の家総裁・副総裁に中心帰一するべきだと言う事である。生長の家の信徒の心得が書かれている「菩薩は何を為すべきか」には「生長の家大神―生長の家総裁・副総裁―御教え、これを貫く流れが生長の家の運動の不動の中心であるという事を生長の家の信徒は肝に銘ずべきである」とある。
 
 私は谷口雅春先生が素晴らしくて、その後の清超先生とかは大した事無いと思っていた。私が学生の時に生政連が解散され、その後、雅春先生がお亡くなりになり、清超先生が二代目総裁として雅春先生の後をお継ぎになった後は清超先生に素直に中心帰一する気になれなかった。
 だが、当時、青年会で関東ブロック担当をされていた現青年会長竹村正広先生とか地元の青年会の事務局長さんとかに影響されて、私も総裁・副総裁に中心帰一しようという信仰姿勢が段々と出来てきた。
 そして、その後、「菩薩は何を為すべきか」に「生長の家というのは私(谷口雅春先生)が個人的に思いつきで始めた運動ではなくて、それは宇宙浄化の神である住吉大神が御始めになった運動であって、私はそのラッパとしての役割をしているのに過ぎないのであって、私というラッパが寿命を迎えて、この世を去る時が来ても、次の総裁が又、その新しい時代にふさわしいラッパとして、生長の家の運動を継続する事になるのであるから、信徒の皆さんは私がいなくなったらどうしようなんて心配する必要は無いのである。既に清超先生は私(雅春先生)を凌駕する働きをしているのであります。」と書かれてあるのを読み、私は痛く感動して、「そうだったのか!」とそれをそのまま受け取り、信じた。
 
 そして、その後、私が地元の教区の青年会委員長にさせて頂いた平成4年の講習会の時はその時、副総裁になられたばかりの雅宣先生を仰いで中心帰一しようという気持ちはそれでも実感として余り無かったが、生長の家の運動は「生長の家大神―生長の家総裁・副総裁―御教え」を貫く神意が不動の中心だと自分に言い聞かせ、参加促進なども頑張って、当日は確か前年比30%増し位の成果だったと思う。
 それで講習会後の幹部会で雅宣先生に成果をご報告した際、「生長の家の運動の中心は先生(雅宣先生)を通して展開されると思って、頑張りました」なんて今から思ったら赤面する様な事を先生に面と向かって、申し上げた。そうしたら、先生はその事には何も触れずに電卓片手に「青年会は随分延びましたねー。率で言ったら前年比30%増しですね」などと褒めて下さった。

 私はその後、信仰が行き詰まり、人生に挫折したが、人生を本当に諦めなかったのは清超先生のテープをそれまで繰り返し拝聴していたからである。それには「解決出来ない問題は無い」という教えがあり、私はその一言にすがって、生き抜きそれで後に宇治で榎本先生に救われる事になるのである。

 私は自分の中に神の国を見出し、他の誰の言にも振り回される事は無い。だからと言って、「自分の中に神があるんだ、真理があるんだ。だから、生長の家総裁・副総裁もへったくれもあるか」と言う気持ちにはなれない。むしろ、自分の中に神を認めれば認める程、その投影としての教えの中心者である総裁・副総裁に中心帰一したくなるのである。実際、今の私でも雅宣先生の仰っている事が分からない事もある。私が先生の御言葉で一番分からなかったのはかつての大戦が日本の侵略行為があったというくだりである。しかし、現在、当たり前に考えてみれば、中国大陸において侵略行為があったのは明白であるし、それが大東亜戦争に結びついたのであるし、それの開戦である真珠湾攻撃はやはり侵略行為であるという事も分かった。又、その後の皇位継承の件でも私は民族派の学者や識者が盛んに男系継承を固持すべきであるという論文ばかり読んでいたから私もそれが正しいと思っていたが、雅宣先生は女系容認論を出され、この時も正直頭が混乱したが、その後、歴史学者の所功氏の著書などじっくり読むと女系容認でも万世一系の皇統が損なわれる事は無い事、むしろその道を開いた方がよほどゆったりした継承になる事が分かったし、最近では民主党による政権交替でも雅宣先生はいち早く指示を表明されたが、これも当初は疑問であったが、その後の彼らの政治運営ぶりとか鳩山首相の国連での演説とか聞くにつけ、期待出来る良い政権が誕生したという思いを日々強めている。

 要するに真理と言うのはいくら自分の中にあるからと言って、自分の脳髄や経験だけからのみ出て来るのではなくて、自他一体であるから教えの中心者に中心帰一する所から、自分の中にある真理が教えの中心者を通して自分の眼前に展開されるのである。

堀 浩二 
# by koujihori | 2009-11-20 12:27 | 光明化運動 | Trackback | Comments(0)

人間はそのままで神である。
 生長の家では実相は完全円満だが、現象は違うのでその実相の完全円満さを顕現させる為には心のレンズを真っ直ぐなものにしなけれはならないと教えられる。私はその事を高校生の時に知ったものだから、それからはその心のレンズを真っ直ぐにする事にそれはそれは苦労したものである。「生命の実相」第七巻生活編に「取り越し苦労するなかれ」という章があり、それを実行する事を試みたがどうしても出来なかった。それどころか青年会の仲間に「お前は取越苦労の仕方が異常だ」と言われた事もある。その時の彼の口調はまるで私を罪人扱いと言うか駄目な奴だみたいな口調であった。

 それで私は自分の心がどうしても明るく強くなれずにとうとう精神的につぶれてしまった。その時、私は自分を生長の家の落伍者と思った。生長の家の生き方、心のコントロールが上手く出来る人は生長の家のエリートだろうが私はそれが出来なかったのである。即ち実相は完全円満かも知れないが肝心の心のレンズを真っ直ぐにする事が出来るか出来ないかは個人差があって、私はそれが出来ない駄目な人間であると思った。それで宇治の道場に行き着いた訳である。

 しかし、それが良かった。私はそこで生涯の師である榎本恵吾先生に巡り会い、今の自分がそのままで完全円満であった事が分かった。即ち、生長の家の実相独在、心もナイ、現象もナイという事がその時、初めて分かったのである。と言う事はそれまでの自分は落伍者でも何でも無く、この本当の自覚を得るための道程に過ぎなかった事が後から考えると分かるのである。

 真理を実行出来る人、心を整えられる人だけが実相顕現出来るのであって、勇気が無くて、真理を実行出来ない人、心を整えられない人は駄目な人であるなんて事はあり得ない。人間は神であるから心の弱い人なんていないのである。もし、心が弱いのであるならば、それは真の強い心が出て来る為の準備段階である。

堀 浩二
# by koujihori | 2009-11-19 12:23 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

そのままでよい(23)
 「そのままでよい」というのが私が榎本恵吾先生から受けた最大の教えである。それまでの私は「心を清めなくてはいかん」「祈らなくてはならん」「供養しなくてはならん」「感謝しなくてはならん」「救わなくてはならん」「真理を実行しなくてはならん」即ち、ああしなくちゃいかん、こうしなくちゃいかんとぎゅうぎゅうに自分にプレッシャーをかけていた。それで遂に一睡も出来ない程に精神的に追い詰められたのである。それでどうにもならなくなって、宇治の生長の家の道場に救いを求めたと言うか不思議な神の導きで導かれて行き、そこで私の生涯の師である榎本恵吾先生に巡り会う事が出来、本物の生長の家の神髄を授かる事が出来たのである。

 この事は本当に幸福で筆舌に尽くしがたい最高の宝であった。それでそれまで「ねばならぬ」と言う心で途轍もない程、がんじがらめになっていた心が解放され、「ああ、そのままで良かった」と一気に余計な力が抜けて行き、私の魂の自縄自縛が解かれ、それで私は生命力が復活し、今日に至っているのである。

 それが今から12年前の事であるが宇治から帰ってきた私はそれまでのとらわれなく、正に「そのまま」で生きていて、それで不思議に自ずと神の道にかなう事が多くなった。
 私はそういう訳で無理して、教えを行じようとかしないから、憤慨する事には憤慨するし、批判すべきものには批判する。そうこうする中、私はある件である相手の事をしかるべき所に内部告発した事もある。内情を話せば、内部告発する気は当初は無かったが、話の流れで結果的にそうなってしまった。しかし、私が告発したのは事実である。
 そうしたら、私の名前が告発した相手に分かってしまって、私はそれ以来、三年間も干される事になった。私は自分がした事は内部告発であっても、それは自分の中の神の判断に基づいて行った自信があったから、自分のした事に何ら後悔は無かった。だから、自分がその後に被害を被る事は無いとたかをくくっていた。しかし、そんな事はなくて、やはり、「切る者は切られる」の心の法則が厳然と働いて、私自身が組織から切られる事になったのである。

 しかし、私はそうした中で学び、鍛えられ、段々と他の人の良い所を観て、賛嘆する事の素晴らしさ、尊さが自分の内側から自ずと分かる様になって来たのである。これは無理に他の人の実相を観ようとか絶対に他の人を批判しないとかそうした「ねばならぬ」の信仰でそうなったのではなくて、「そのまま」で居て、自ずと色々な体験を経る内に出来る様になって来たのである。だから、実相が出て来るという事は常に自分の心、行動を「こうでなくてはならぬ」とがんじがらめにする事ではなくて「そのまま」でいて、相手を攻撃したり、批判したりする事が例えあっても、それで観世音菩薩の働きでやはり、自分も攻撃されたり、切られたりする中で自ずと自分自身のそのままで完全円満の実相が自ずとより分かって行き、それと同時に他の人の実相の素晴らしさも徐々に分かって行くと言う形で成就されて行くものである。

堀 浩二
# by koujihori | 2009-11-18 12:38 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

夫婦調和について
 何でもそうだと思うが、現在の自分の人間関係とか境遇が余り良くないのは自分の心が歪んでいるからである。即ち、吾々は完全円満の神の子として、今、ここ完全円満の実相世界にそのままでいて、そこで無限の智恵、愛、生命、供給、悦び、調和を神から幸はへられているのである。「今、このままで」である。 それを自分の認識が歪んでいるとその大調和の世界が感じられない。

 だから、親に感謝せよとか夫婦相和せよとか色々言われるが、自分が今、ここに神の子として神から完全に生かされていると分かれば、その心の現れである、自分の親とか半身がとても素晴らしい有り難いものに感じられるのである。

 今、サッシのテレビコマーシャルで冷え切った夫婦が出て来るのがあるが、夫婦の仲が中々上手く行かず、人生が面白くないものに感じられるのはただ単に自分の観が歪んでいるのである。それで他の相手に気が行ったりして、家庭が破壊されたりする事があるが、それで今までの相手と別れて別の相手と結ばれたとしても自分の観の歪みが取れていなかったら、又、その相手とも上手く行かないのである。

 今、そのままでここが神の国であり、自分の半身は素晴らしい自己の半身であり、見目麗しく、和顔愛語賛嘆に満たされているのである。そして、お互い本当に心が通い合って、愛し合って、一緒にいて楽しいのである。それがそのまま今ここにいる自分の半身である。自己の心が歪みが取れて、そのままの実相世界が観じられる様になると自分の半身はそのままで素晴らしい半身であった事に気がつく。夫婦が上手く行かないのは自分の実相を観ずる心に歪みがあるからである。

堀 浩二
# by koujihori | 2009-11-17 12:23 | 家庭生活 | Trackback | Comments(2)

本当の信仰とは
 一口に生長の家の真理と言っても色々ある。実相独在、唯心所現、万教帰一を始め、それはそれは多岐に渡っており、その展開の仕方は無限である。それは時に応じ、処に応じ、人に応じ、変幻自在に出て来る。それでその教え、真理は実に多くの書物があり、又、講習会、講演会や誌友会、見真会、練成会などで生長の家総裁以下様々な先生、講師により、生長の家の真理は説かれる。

 しかし、一番大事な真理はこうした有り難い真理が自分以外の誰かではなくて、自分の中にあるという真理である。
 外からの情報ではなくて、内なる世界に神がある。真理がある。外は一切ナイのである。自分が真理そのもの、神そのものである。外からの情報が如何なる聖者の言であってもそれに振り回される様であってはならぬ。

 キリストは「汝らの内にのみ神の国はあるなり。外にこれを追い求むる者は永遠にこれを得る事あたわず」と仰ったが、生長の家の真理は記憶力が抜群に良くて、谷口雅春先生以下清超先生、雅宣先生のお説きになった事、書かれた事を一言一句全部暗記していればそれで生長の家の真理を分かった、悟ったという事にはならない。それらの諸先生方の尊い教えもそれが自分の外にあるもの、即ち言い換えれば自分と無関係なものとしてとらえれば、それは何の価値も無い。自分の中に神の国を認め、そこにこそ真理があると言う事に目覚めている事が一番大事な事である。その事を悟る事を本当に悟ると言うのである。

堀 浩二
# by koujihori | 2009-11-16 12:27 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

仕事のやりがい
 9月に政権交代があって、民主党の鳩山政権が発足してから二ヶ月になる。私は民主党政権に対して多少の懸念を抱いており、当初は不安だったが、(今でも完全に払拭された訳ではない)、この二ヶ月の彼らの政治運営ぶりを虚心坦懐の心で眺めるととてもまともな運営に見える。例の仕分けチームの働きなど見ていると今まで官僚達が決めた行政にどれだけの無駄があったのかと言うことが明白だし、この様な無駄な事業、団体が国民の税金を無駄遣いしていたのかと思うとこれまで戦後60年に渡って続いて来た自民党政治がいかにいい加減で腐敗していた、国民目線でない官僚主導型の政治をしていたか分かる。吾が日本国にやっとまともな国民目線の当たり前の民主主義の政治が展開され始めたと見るのが妥当だと思う。

 ところでこうした様も見るに付け、今までの自民党の政治家(もちろん素晴らしい理念を持った政治家も中にはいる)の多くが、そして官僚達の多くが腐敗し、国民の税金の上にあぐらをかいていたかが分かる。人間というのは真理を知らないとこれだけ唯物的になり、目先の利益しか考えない堕落した生き物になるのかと思う。

 人間には仕事をやる際には当然、動機、モチベーションというのがある。モラル(士気)とも言うが、私などは会社の仕事に携わっているので社員のモチベーションというのが如何に大事かと言う事は本当に実感する。当社では今まで社員の採用は中途採用が殆どであったが二、三年前から新卒採用も始めた。それで今年の四月に久しぶりに新卒の社員を迎えたが彼らは本当にこれから社会に出て、頑張るぞーという気概に満ちている。それに刺激されて今までいた社員もやる気の面で多少の良い変化が見られる。学校を出て、社会に出たばかりの若者はこれからの自分の人生の船出であり、将来の夢と希望を抱いて、それを動機として頑張るのである。
 しかしながら、社会人を長く続けていて、私の様に50歳を過ぎて、定年まであと10年だなんて事になって来ると、もう自分の人生の先が見えて来る。そうなると人によっては老後の事を考えたりなんかして、仕事の方も適当にお茶を濁そうなんて事にもなって来る。そうなると失敗を恐れて冒険とか挑戦なんて事を仕事においてしようとしなくなるし、自分の能力増強の為に何か努力したり、勉強しようなんて意気込みも無くなって来る。それだけならまだ良いが前述の様に政治家であっても国民の為、国の為なんて事は忘れて、腐敗した官僚と結びついて税金の無駄遣いをしたり、利権にまみれて、自分の懐を肥やす事にばかり奔走したりする。

 これらは皆、真理を知らない為にそうなるのである。人間をただの物質と考え、職業というのは単にその物質である自己の肉体を維持する為の衣食住を得る為だけの手段と考えたり、又、おのれの物質的利益追求の為の道具と考えている様では如何に若い時、学校を出たての頃は前途洋々の気持ちでいたとしてもいずれ堕落する。

 吾等は自己の本質が神であり、無限であり、この人生が自分でなければならない使命と個性を持って、社会と国と世界に貢献するものであるという認識を持っていなければ駄目なのである。そして、この肉体は単なる道具であり、自分の本体は永遠不滅の無限の価値ある存在であると言う事に目覚めなければ真の人生の生き甲斐、仕事のやりがいというのを見出す事は出来ないのである。

 私の父は今年92歳になったが今でも現役で仕事を続けている。それは機械の研究開発だが、毎日出勤して、若い技術者と毎日、議論を重ね、より性能の良い機械の開発にいそしんでいる。だから、お陰様でかくしゃくとしていて頭脳もはっきりしている。
 また、父は国の為に社会の為に赤十字などを始め、色々な団体とか愛国的政治家とかに惜しみない献金、寄付をしている。(断っておくが父の寄付は利権がらみのものと違う。純粋に愛国的観点からやっているのである。)自分の利益とかそんなものは度外視して、他のために多大な供与をしているのである。父は生長の家の教えは明確には知らない様だが、魂の奥深い所で真理を理解しているのだろう。だから、他のために尽くせるし、肉体年齢など関係無く、自分の希望に燃えて、純粋に仕事に打ち込めるのだと思う。

 谷口雅春先生も九州総本山に龍宮住吉本宮を建立され、住吉大神様に御出座頂いて、日本国実相顕現を人間智ではなくて神様の御力で直接、達成して頂こうとされたのも80歳を過ぎてからである。

 そのように人間の本質を理解し、人間神の子、完全円満を知って、おのれだけに出来る使命に燃えて、悦んで仕事をし続ける人は老いないのである。健康であり続けるのである。

堀 浩二
# by koujihori | 2009-11-13 12:36 | 社会生活 | Trackback | Comments(4)

ものごとは自ずと成就する。
 ものごとは自ずと成就するのである。吾々は何か問題が持ち上がったり、又、課題を与えられて、取り組まなくてはならない場合、「さあ、大変だ。ちゃんとやらなくては」と思って焦ったりする事がある。しかし、ものごとというのはそのままであれば自ずと成就するのである。上手く行かない事があるとすれば、それを「そのまま」に任せず、「私が」「オレが」と我(が)がのさばり出た場合である。それは問題あり、そのままではいけないと思って、問題をつかむから駄目なのである。

 吾等は今、そのままで無限力なる完全円満なる神に生かされ、守られ、導かれているのである。よって、ものごとは自分が下手に問題をつかんで手出ししない限り、自ずと解決するし、成就すべきものは成就するのである。しかし、それは手をこまねいていて何もしないという事でもない。内なる神の導き、催しに従って、その成就の為に最もふさわしい、効果的な為すべき事をやって行くのである。それは生長の家の神示にある様に鳥が巣を作るのはそれを作らなければ大変な事になると取り越し苦労するから作るのではなくて、何となく内側から作りたくなるから作るのである。それは鳥が作ったのではなくて、鳥の内側の本能即ち神の生かす力が作ったのである。

 「そのままでよい、このままここが完全円満の実相世界である。」と言う信仰を何も為すべき事をしないで手をこまねいて見ている事だなんて思うのは間違いである。強盗に襲われたら反撃するし、敵国が攻めてきたら、それを打ち砕くのも「そのままでよい」である。

堀 浩二
# by koujihori | 2009-11-12 12:21 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

既に成就している。
 既にものごとは全て、成就しているのである。以前の私は「あれもやらなくちゃいかん、これもやらなくちゃいかん」と常に思っていて、その重荷につぶれてしまったのである。
 どうしてそうなるかと言ったら、それは我(が)がやろうとしているからである。今、ここそのままで完全円満の実相世界であると悟らず、内に常楽の神の国を認識せず、我(が)の力でものごとを何とかしようとか可愛そうな人を救おうとか、愛行しようとかしていたのである。即ち、全知全能、普遍なる神、宇宙に充ち満ちていてその力は無限であり、全てに既に行き届いている神を信用せず、その無限者なる神をさしおいて、我(が)というちっぽけな自分がやろうとする、救おうとする、保全しようとする、解決しようとするのだから、それはそれは想像を絶する重荷である。大抵の人はそういう場合、適当にお茶を濁して誤魔化して生きるのだが、真面目で純粋な求道者ほどそれをまともにやろうとする。そうなると待っているのは大変な心の重荷であり、不安であり、悩みである。生長の家の運動も自分が私がやろうなんて境涯であれば苦しいばかりである。

 しかし、吾等は安心して良いのである。全ての問題は神により解決済みであり、生長の家の真理は宇宙の隅々までも既に行き渡っていて、そこにいるかもしれない別の人類をも既に光明化済みである。それは神によりそうなのである。生長の家の運動が神様の運動であるとはそういう意味である。

 その様に全ての運動が完成しており、全ての仕事が既に為され済みであり、私(我(が))は要らなかったと分かると自分の肩にのしかかっていた重荷が全て神により担われ、安心して、悦ぶ事が出来る。そうなると却って、今目の前の事に目が行き、ものごとに行き届く事が出来、悦びの内に力強い光明化運動が出来るのである。そして、自分が心底したいと思っていた事が安心して思う存分出来る。それが実は内なる神の創造であり、真の光明化運動であるのである。

堀 浩二
# by koujihori | 2009-11-11 12:20 | 光明化運動 | Trackback | Comments(0)

何が起こって来ても大丈夫
 何が起こって来てもうろたえる事はない。それは真に実在するものではなくて、単に自分の観が歪んでいるだけである。自分の観が歪んでいれば今ここ大調和の世界であり、何も困った問題が無いのにそれが歪んで困った状態、不調和な状態、病気の状態などが現れる。大抵の人はそういう状態が現れると「さあ、大変だ、何とかしなければ」と焦って、色々解決法を探し回る。しかし、そうすればするほど、事態は紛糾し、収拾がつかなくなる。それは現在の歪んだ不調和の状態を実在すると思って、それを何とかしようと心でつかんで行動するから、その「不調和がアル」という自己の認識の通り、色々動き回れば回るほど更に事態が紛糾するのである。

今、完全円満の大調和の実相世界が自分の周囲に展開しているのである。今、ここが実相世界であり、神の国である。自分が大変な失敗をして、大変な事になってしまったなんて事は無い。自分は神であり、自分の過去の行動そのまま神の行動である。それがそう思えないのはやはり自分の認識に歪みがあるのである。それを信じて、そのままの心でおれば事態は自ずと収拾する。否、始めから問題なんて何も無かったのである。

堀 浩二
# by koujihori | 2009-11-10 12:19 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

人に優しくなれるには
 生長の家では人に深切であれ、愛を与えよと教えられる。まあ、大抵の宗教はそうだろう。そして、他の人の暗黒面ではなくて光明面を観よとも教えられる。そして、何より大事なのは愛行であると強調される。

 しかし、これが形ばかりのものでは意味がない。形ばかりのものとはその愛行を吾が内の神が直接されているのではなくて、我(が)が無理してやっているのである。こういうのを願無き行は仏の魔事なりと言うのである。

 ところで私は最近、本当に有り難く思うのは人に対して本当に親切にしよう、相手に良くしてあげようという気持ちが心底湧き上がって来る様になった事である。はっきり言って、以前はそうでも無かったと思う。割合、他の人に打ち勝つ事ばかり考えていたと思う。

 どうしてそうなれたかと言うと私自身、自分に幸せと自信を感じる様になれて来たからだと思う。人間は自分に余裕が無いと人に与える事は出来ないのである。自分に無限があると思えばこそ、それを相手に与えられる。与える事によって自分が減ると思ったら与える事は出来ないのである。

 そういう訳で真の愛行が出来るにはやはり、自分の中に無限供給があると悟らなくてはならないのである。何よりも真理探究が大事であるとはそういう意味であるのである。

 そして、それはやはり、私の中の実相が自分で出て来たのである。実相が自分で出て来たから、実相が実相して、真の愛行が出来る様になったのである。

堀 浩二
# by koujihori | 2009-11-09 12:20 | 社会生活 | Trackback | Comments(0)
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真理を学び、悦び合う空間にしたいです。

by koujihori
堀 浩二プロフィール
1959年(昭和34年)生まれ
立教大学経済学部卒
会社員
妻との間に一男がある
趣味はテニス、卓球、野球、英会話等々

母親の影響で幼い頃より生長の家の信仰を持つ。
現在、生長の家地方講師

PROFILE

Born in 1959 

Amateur lecturer of Seicho-no-ie


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