聖典の言葉尻にとらわれてはならない。

 聖典の言葉尻にとらわれるな。無形、無限の真理の一つの現れとして聖典の真理の言葉があるのである。本当の真理は文字の奥の無形、無限のものであり、そこから現象化する際、色々に限定された形としての言葉となって出ているのであり、その色々の有限の言葉が組み合わされた真理の言葉の曼荼羅により、その奥の無形の真理を悟って行くのである。
 生長の家はこうして色々と有限の言葉を立てて、これを組み合わせてその有限の言葉の奥の不立文字の真理を読者に悟らせる事に成功したのである。しかし、やはり、形に現れた一つ一つの真理の言葉は真の無形の不立文字の真理そのものではないのである。

堀 浩二
# by koujihori | 2017-07-27 10:44 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

唯物論こそが迷いの元である。

 全ての迷いの元は唯物論である。人間を物質と思っているから残酷な事も出来る。人から奪って自分だけ潤おうと思う。
 人間を物質だと思って居るから自分と他がバラバラだと思う。そこに利己主義が出て来る。そして物質をアルと思って居るから目の前の悪を具体的な存在だと思う。そこから恐怖が出て来る。そして病気になり、またその目の前の悪を殲滅しようとする。

 それらの唯物論は人間の魂の幼い段階なのである。

堀 浩二
# by koujihori | 2017-07-26 09:35 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

愛を与えれば自分に愛が増える。

 私は自分が不遇に遭う原因がはっきりと分かった。それは自分に愛が無かった為である。周囲に愛を与えず、笑顔を与えず、人の良い所を見ず、そうした習慣が私に愛を培う事が出来ない事になり、その為に私に愛が無く、他の人の成功や出世に嫉妬し、そして愛を与えていない即ち私自身が周囲に不遇を与えていた為に私が不遇となったのである。

 しかし、これは素晴らしい発見であり、最大、最高の価値ある事である。これも私の周囲の私を不遇にしてくれた人達のお陰であり、そして内なる生長の家の神のお導きであり、そしてこれこそが私の中の実相が自分で出て来た事なのである。 

堀 浩二
# by koujihori | 2017-06-29 15:46 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

本当の幸福とは

 私はこのところ、表面的には艱難続きである。特にある場所で不遇を受け、居場所が無くなって来ている感じだ。

 しかし、これはその奥で途轍もなく素晴らしい事が進行している事だとは何となく感づいていた。私が不遇を受けるのは私に愛が足りない事の観世音菩薩の働きであると思っていた。そして、ある時、決定的に自分には愛が無いという事を実感する出来事があった。 
 それは先日、ある友人に呑み会に誘われた際、その友人の写真を持っていたスマホで何気なく写した。それを後からフェイスブックにアップして、その友人を小バカにした文章を添えて投稿しようとしたのだ。その時に実感したのだ。ああ自分はこの友人に対する愛が足りないと。
 実はこういう傾向は私は生まれつきあったのだ。だから人を批判してしまう。愛があれば批判なんかしないのです。

 そこで全てが本当に分かりました。自分は愛が足りなくてそれでかつてノイローゼとか不眠症になったのだと。その事は雅春先生が「生命の実相」の中で書いてある。

 今のある場所での不遇は自分に愛が足りないからそうなったのでありそれが観世音菩薩となって自分にお示しがあった。
 しかし、観世音菩薩として自分にそのお示しがあったと気がついた時点で自分の中の実相が出て来ているのです。何度も言いますが実相は自分で出て来る。

 私がフェイスブックで友人に愛のない行為をしようとした時点でそれが自分に愛が無かったと実感出来たのは私の中の実相が出て来て愛が表面に出て来たからこそ過去の自分が悪かったと気がついたんですね。

 こうした人格の生長こそが私がこの世に生を受けた大きな目的でありました。そして何かしら問題が起こって来た時はそれが実相が出て来るきざしというか基礎工事になっている訳であります。

堀 浩二
# by koujihori | 2017-06-26 10:33 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

凡庸の唄の素晴らしさ

 谷口雅宣先生の「凡庸の唄」だけれども今一つ分からなかった。だって昔から一芸に秀でる者は百芸に通ずと言われているし、人間神の子無限力ならその無限力を掘り出すのに必死になるのが本来であるのにこの凡庸の唄では下手の横好きを肯定している。

 でも自分の能力をやっきになって伸ばす事は利己主義につながるし、技術的な事の向上を追い求めるのは人間の自然の能力を損なったりまた物質繁栄追求にもつながるので環境破壊につながるという所までは理解出来た。

 でも私はここ最近、決定的な経験をした。それは先日、会社で従業員の夏の賞与を決める会議を私と社長と最近役員になったN氏(私より15歳年下)とでしたのだがN氏は会社の従業員の日頃の仕事ぶりとかを私などより遙かに熟知しており私は立つ瀬がなかった。私は経理、財務が主な仕事なので会社の機械メーカーとして主たる業務に関わる事が殆ど無い。N氏はその点、営業部長であり営業は設計とも現場とも工務とも関わるので会社の人達の働きぶりを良く知れる立場にはある。
 でも私は自分が余りに会社の従業員の事、そして機械メーカーとしての日頃の業務の流れを知らなすぎると実感した。
 私は日頃考えている事は生長の家の真理の探究、それから美術とかテニスとかの自分の趣味に関する事、そして日本の政治の実情や世界情勢、そして仕事は自分の業務に関わる事のみである。

 要するに日頃から自分の能力の向上や日常の仕事に関係の無い比較的レベルの高い知識の収集ばかりに目を奪われて日常的な周りの人の普段の状態とか会社の自分の業務以外の事に関して殆ど無関心だったのだ。

 要するに私は視野が狭かったのである。それは私が凡庸の唄に書かれている事、即ち日常的な事に目を向け味わうとか下手の横好きをいとわないで色々な事に興味を持つというのとは全く逆の生き方を今までしていたのであった。

 私に一番足りないのはそうした広く周りに目を向け、味わい思いやりを持つという事であったのだ。だから社員の賞与の査定の時に社員の事や彼らの日頃の業務の事も分からなかったのである。

 私はこの凡庸の唄に救われた。そうでなかったら私は会社の経営陣として失格だっただろう。

堀 浩二
# by koujihori | 2017-06-23 12:39 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

実相は自分で出て来る。

 実相は自分で出て来る。これは私の恩師の榎本恵吾先生のお言葉であり、先生はこれを生長の家の草創期の雅春先生の高弟である服部仁郎先生から薫陶を受けたのだそうだ。
 
 真にも実相は自分で出て来るのである。我(が)があくせくして出て来るのではない。そして、それはのんべんだらりとしていて出て来るというのではない。真摯な全力の生き方を要求される。

 というのは実相が自分で出て来る場合、必ず観世音菩薩の御働きを介して出て来るのである。それは自分の心持ちとか行いの間違いを観世音菩薩が観じてその通りの状態を自分の周囲にもしくは自分自身に現象化させる。それで初めて自分が間違っていたと実感する。その時に自分の本来の完全円満の実相が出て来るのである。

 それが実相は自分で出て来るという事である。

堀 浩二
# by koujihori | 2017-06-21 15:04 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

縦の真理と横の真理が一つになる。

 良い事を思ったり生長の家の生き方をするのは実相独在を悟れば出来る。それは実相が自分で出て来る事により出来る様になる。そして、それは同時に訓練となる。

 従って実相独在を悟れば生長の家の生き方の身口意の訓練が出て来るのでありここに実相独在の縦の真理と心の法則の横の真理が一つになるのである。

堀 浩二
# by koujihori | 2017-06-14 13:17 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

全ての問題は神が解決して下さる。我(が)は要らない。

 「皆さん!全託と言ったら本当の全託ですよ!」とは宇治別格本山でご指導されていた榎本恵吾先生のお言葉です。
 世に「人事を尽くして天命を待つ」という言葉がありますが生長の家も「ここまでは人間の役割で後は神様に全託」という言い方がされる事があります。
 でもそれは正確に言うと正しくない。全託と言ったら本当に何もかも神に任せきる事です。浄心行して自分の積年の恨みの念がすっきりしたとします。でも現実に戻ると相も変わらず人として本来でない仕打ちを相手はして来る。でも感謝しないと自分や家族が病気になったりその他の不幸になるのは分かっている。感謝しなくてはと思っても今目の前で行われている不正に対する憤りはどうしもようもない。それだけじゃない。生長の家の生き方としてこうすべしという事があってもどうしてもやり切れない自分がいる。

 これはもう神様に全部問題を預けてしまう以外無いのです。感謝も神がさせて下さる。本来やるべき事も神様が自分又は他の人をして自ずとやらしめ給う。

 それが生長の家の本当の信仰であると思います。問題は神が解決し給う。実相は自分で出て来る。そのままでよい。我(が)は要らないのです。

 そのままの中で観世音菩薩が色々お示し下さって徐々に自分の認識が高まる。それが実相が自分で出て来ている事なのでそれで良いのです。そこに人生が神の生即ち神生となる。

堀 浩二
# by koujihori | 2017-05-22 11:15 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

赦すのは神が赦すのである。

 相手が自分にとても赦せない仕打ちをして来た場合、それを赦そうとしても赦す事は難しい。
 それは我(が)が赦そう赦そうとしているからである。吾が内の神のみがそれを出来るのである。

 神に全託して「そのまま」の心であれ。それで表面的に相手に怒る事があっても良いのである。神が内側から出て来て相手を赦す事が出来る様になるのである。
 それが神に生かされているという事であり、実相独在であり、実相は自分で出て来るという事である。

堀 浩二
# by koujihori | 2017-05-11 16:31 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

完全主義とは

 昨日、私は大発見をした。それはもう一年以上前から組み立てているサンダーバード2号のプラモデルで2号本体の付属品とも言うべき救助メカの中の組立に失敗した時の事だった。
 このプラモデルは毎週少しずつ部品が売り出され、このサンダーバード2号と救助メカシリーズは丁度80週掛けて完成される。今、67週目だ。

 で、昨日、その救助メカの一台の組立に失敗し、模型として不完全なものが出来上がった。救助メカというのは十何台もあり、一つ一つは手の平に載るような小さいプラモデルだ。今まで十何台というその救助メカを完璧に瑕疵なく組み立ててきたのに昨日、初めて失敗してしまったのだ。 

 その時、私は非常に歯がゆい思いをした。今までずうっと完璧に組み立てて来たのに初めて失敗作が出来てしまったからだ。模型本体に付属する十何台もある小さな模型の組立に失敗しただけなのに。

 そして、私は自分が完全主義者であるという事を認識した。完全主義であると不完全だととても気持ちが悪い、嫌になってしまうのだ。いつまでもモヤモヤしてやる気が無くなってしまう。しかし、その時、その考えこそが自分の人生を不幸なものにするという事を悟った。
 完全主義というのは現象即ち外の世界に完全なものを求める主義の事でこれだと心の安定が得られない。そして完全にしよう完全にしようという衝動が出て来て落ち着かないのである。その心は利己主義であり我(が)である。
 そして、それはこの世には不完全あり、悪ありという自己の迷いの心なのである。その迷いの心があるから不完全を現象世界に映し出す。そしてそれが不運とか不幸になるのである。思ったら思った通りになる心の法則が働いているからである。

 この世に悪あり不完全ありの心が完全主義の正体であり、それは聖経「甘露の法雨」に書かれている
「神の国は吾が内にのみあり、外にこれを求めるものは永遠にこれを得ることあたわず」という事なのだ。

 神の国は吾が内にありというのは今ここそのままで神の国であり自分は神の生命そのものであるという自覚である。それこそが生長の家の信仰であり、それが無くて現象要するに外の世界に神の国を求めるというのが迷いの心でありそれが完全主義である。

 私はそういう心を今まで持っていたから現象的に不幸や不運が出て来ていたという事が昨日、プラモデル創作の過程で分かったのだ。

 だから、私は完全を求める心を放っておいて今を生きる、今与えられている事に感謝する心のトレーニングを昨日から開始している。

 この様に日常の何気ない所至る所に観世音菩薩の教えは響き渡っているのである。

堀 浩二
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# by koujihori | 2017-05-10 17:30 | 信仰 | Trackback | Comments(0)