人生は神生である。

 生長の家では実相独在の真理と唯心所現の真理を教えられる。そして、本当の世界では完全円満の神の生命の実相のみが存在しているのであり、それを吾々の心がどの程度、認識するかによって、吾等の現象生活が違って来る。即ち、実相円満完全の生命の実相が今、ここにあると自覚した者はその認識通りの世界を自分の周囲に現し、そこで幸せに生き生きと暮らす事が出来るが、その完全円満の世界を認識していなければ、現に始めから完全円満の神の世界に完全に生かされ、導かれているのに拘わらず、「暗い、不幸だ、自分はどうしたら良いか分からない、苦しい」と思って、自分で自分の首を絞め、苦しみ続ける。 
 それは当たり前の事である。自分が素晴らしい、今、ここが神の国であったと自覚すればその認識通りにそこに神の国を見出し、自分も完全円満であった、自分の人生も神に導かれた、神の生であったと分かるのは当然である。しかし、その目覚めが来るまでは神に完全に生かされ、導かれた人生であっても気がつかないから不満ばかり言う様になる。

 そうした心の思い通りになるのを唯心所現と言うのである。ただ、生命の実相を悟るか悟らないかで自分の周囲の環境、現象が変わって来るという事であるのに、生長の家の初期の人はこの現象世界は自分が作るのだと思って、それを良くしよう、良くしようとして力んで神に生かされている人生であるという事を忘れるのである。即ちこの現象世界は神のお作りになった第一創造の世界ではなくて人間の念が作った第二創造の世界であるから、それを築いていくのは自分の責任だと思って、自分が良くしよう、良い事を思って、良い世界を実現させようとするのである。それが我(が)である。そこには神に生かされているという感謝の念は無いのである。
 そうではなくて第二創造の現象世界というものは本来無い事、それを創造する原型の人間の心というものは本来無い事、ここに神に生かされた完全円満の自分しか無い事、そして、神の心しか無い事、それが自分の心であったと言う事、自分の人生は自分の心で作ったものだと思っていたのがそうではなくて、それは存在せず、全て神に生かされた、神に導かれた、神が決めてきた人生即ち神生であったと言う事、これらに目覚め、悟った時、その心を反映して、自分の周囲の全てが神の現れであったと気づき、そこに天国浄土の現成があるのである。

 自分で生きてきた、決めて来たというのは我(が)であり、迷いである。自分で決めてきたと思うからその判断に自信が無いし、不完全なものに感じられるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-07-30 12:28 | 信仰 | Trackback | Comments(2)
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Commented by yuko at 2009-07-31 10:36 x
そうですよね。その通りですよね。今ここに神に生かされた完全円満の自分しか無い事、全て神に生かされた神性であったという事ー嬉しいですよね。感動しますよね。私はそのことを長い間頭でしか解っていなかったのですが、今は本当に自分の生命を悦べるようになりました。自分が素晴らしいのです。堀さんのブログは「うん、そう、そう!」の毎日です。ありがとうございます。
Commented by koujihori at 2009-07-31 16:36
yuko様

 有り難うございます。現在は本当に自分の生命を悦べる様になられたとの事、本当に素晴らしいですよね。

 ところで今日、新型プリウスの納車です。14年間乗っていた愛車とはいよいよお別れですが、息子の友達にもらってもらいます。と言う事で今からワクワクしています。いずれ生長の家本部の相愛会のホームページで発表させてもらいます。ここでも記事にするかも。
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