アルと思う事の迷い

 聖典「生命の実相」の中に書いてある話だが、鶏をぐっと抱きかかえて、それを地べたに押しつけ、その状態でその目の前の地面に白墨で線を一本引くと、鶏から手を離して、自由にしてやっても、鶏は自分の目の前に惹かれた白墨の線を自分を縛る縄と勝手に勘違いして、ずっと動かないでじっとしているのだそうである。

これと同様に吾々人間も本来は完全円満で無限力で全ての事、能わざる無しという自由自在の存在であるのに自分で自分を勝手に自分を縛る縄があると思って、自縄自縛しているのである。
 その縄とは具体的に何であろうか?それは物質がアル、肉体がアル、現象がアルという迷いに他ならない。アルと思うとそれに縛られるのである。

 財産がアルと思うとそれに縛られる。失いはしないかと心に平安が無くなるのである。私は先日、新車を買ったが、表通りから私の家に入ってくる路地が非常に狭くて、そこを入る時、いつも車幅ぎりぎりなのである。ところが新車は今までの車より幅4センチも広くて、今までの要領で曲がると横を擦ってしまう。それで今まで以上に注意して曲がるのだが、それでもこすってしまう事がある。そうするととても気分が悪い。だが、それは新車という物質がアルと思って、それを保とうと執着する為にとらわれているからである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-08-12 12:21 | 信仰 | Trackback | Comments(4)
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Commented by ふじおか at 2009-08-13 13:36 x
車一台通るのも容易でない程せまい路地ですか。
新車なら気を使うでしょうね。

北海道は道が広いので考えられません。  でも逆にその広さのせいでスピードを出しすぎて大事故を起こし車、生命までも失う危険性があります。

自分の所有物を大切にするのと執着する事の違いですね。
Commented by koujihori at 2009-08-13 21:21
ふじおかさん

 大切にするのは神を相手に観るからで執着するのは物質アリとの迷いから来るのですよね。
Commented by 三谷文人 at 2009-08-16 23:18 x
 有難うございます
 
 今パソコンの前に座って、堀さんの御文章を読んでいるのは肉体の自分なのか、人と話す時は、咽喉が声を発しているのか、食事を頂く時は、肉体の自分が物質を食しているのか、行をやっているのは、肉体の自分が頑張っているのか、----同じ行為をやっていても、霊の自分か肉体の自分かでは、天地雲泥の差がありますね。
 日常生活を振り返ってみるに、物質ナシ、肉体ナシを観念的に理解していても、現実には肉体に力があって、物質によって生かされているのだ、という感情が抜け切れていない自分に気付きます。

 物質ナシ、肉体ナシ、現象ナシの自覚を深めて、神の子の悦び、生かされている悦びを求めていきたいです。
 
 先日は有難うございました。又、次の機会も楽しみにしていますからね。
Commented by koujihori at 2009-08-17 09:10
三谷さん

 先日はこちらこそ有り難うございました。とても盛り上がりましたね。

 ところで公案の様なお話ですね。行をしているのは肉体の自分か霊の自分かと言う違いは大変な違いだと思います。

 ところで吾々は神ですから常に神なる生命が行じているのですよね。神が神する神想観、神が神する愛行ですね。だから、それは同時に自分が生きているのではなくて、神に生かされている、有り難いという事になり、そこからのみ感謝が出て来るのですよね。
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