そのままでよい(18)

 吾々は神の子であり、神の生命そのものである。そして、現象はナイのであり、いくら不完全な現象が見えていてもそれはたった今、ナイのである。それでは何なのかと言ったら、それは吾々がこの世界をどう見るかの認識が映っているだけなのである。

 従って、吾々が生きてきた人生も吾々が生きてきたと思うのは迷いであり、錯覚であり、実際は神が生きてきた生即ち神生と言う事になるのであり、そこに何の間違いも罪も無かったと言う事になる。そのままでよいのだから、自分の人生は神の生であり、何も間違いも罪も無かったのであるから、今、そのままでよいのである。私の家族は完全円満であり、私も完全円満であり、私の隣人、職場の同僚このままで完全円満である。それがそう見えないのは自己の心が歪んでいるだけである。だから、それらを良くしようとする必要は無いのである。自分のつれあいは見目麗しく、和顔愛語に満たされてあり、私の子供は見目麗しく、和顔愛語に満たされてあり、同様に全ての家族は完全円満で素晴らしいのである。

 それをそう思わないで良くしようと言うのが迷いである。良くしようと言う思いは今はまだ良くないという思いである。要するにその人は今、そこその人がいる位置が完全円満の神の国であると言う事を認識していないのである。認識していなくてはその人は既に始めから完全円満であり、神の国にいて、神から生かされていたにもかかわらず、自分は生かされていない、まだ駄目だ、駄目だから良くしなくてはならない又は神の国にまだいないからこれから神の国にはい上がらなくてはならないと迷った認識を持つのである。そういう認識であれば、その認識の通り、今そのまま神の国にいながら、神の国から転落するという夢を見る事になる。

堀 浩二
by koujihori | 2009-08-18 12:35 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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