そのままでよい(20)

 今、そのままの自分が神である。自分の行動、発言そのものが神の行動、発言である。自分の行動と神の行動が別のものであると思うから迷うのである。自分の行動や発言が自分の行動、発言であって、神の行動、発言でないと思う事が既に我(が)である。そうした考えがあの時、ああ言えば良かったとか、こう言わなければ良かったとか考えたり、これこれこうしなければ大変な事になるとかの取り越し苦労を生ずるのである。それは取りも直さず神に生かされているという認識ではなくて、自分で生きているという認識である。だから、自分の言った事、やった事に自信が持てず、絶えずこうした事で相手を傷付けるのではないかとか大変な損害を与えるのではないかと取り越し苦労そして持ち越し苦労が絶えないのである。

 私はかつて私の尊敬するA先生に強調されたのは「自分が神であるという事は自分の言った事、やった事そのまま神の言った事、やった事である。」という教えである。それまでは自分の行動や言動は正しかったのだろうか、それによって相手に多大な迷惑やミスリードしたのではないかと自分の行動、言動に対して自信が持てず、持ち越し苦労や取り越し苦労ばかりしていたのである。

 しかし、吾等は今、このままで始めから神であったのである。吾神の子の自覚とはそういうものである。それがそう見えないのは一重に自分の観が歪んでいるのである。その歪んだ観で色々行動するのが取り越し苦労や持ち越し苦労であり、それが罪の意識であり、我(が)である。それは大安心の心でないから、いつかはつぶれてしまうのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-09-30 12:09 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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