そのままでよい(23)

 「そのままでよい」というのが私が私の尊敬するA先生から受けた最大の教えである。それまでの私は「心を清めなくてはいかん」「祈らなくてはならん」「供養しなくてはならん」「感謝しなくてはならん」「救わなくてはならん」「真理を実行しなくてはならん」即ち、ああしなくちゃいかん、こうしなくちゃいかんとぎゅうぎゅうに自分にプレッシャーをかけていた。それで遂に一睡も出来ない程に精神的に追い詰められたのである。それでどうにもならなくなって、宇治の生長の家の道場に救いを求めたと言うか不思議な神の導きで導かれて行き、そこで私の生涯の師であるA先生に巡り会う事が出来、本物の生長の家の神髄を授かる事が出来たのである。

 この事は本当に幸福で筆舌に尽くしがたい最高の宝であった。それでそれまで「ねばならぬ」と言う心で途轍もない程、がんじがらめになっていた心が解放され、「ああ、そのままで良かった」と一気に余計な力が抜けて行き、私の魂の自縄自縛が解かれ、それで私は生命力が復活し、今日に至っているのである。

 それが今から12年前の事であるが宇治から帰ってきた私はそれまでのとらわれなく、正に「そのまま」で生きていて、それで不思議に自ずと神の道にかなう事が多くなった。
 私はそういう訳で無理して、教えを行じようとかしないから、憤慨する事には憤慨するし、批判すべきものには批判する。そうこうする中、私はある件である相手の事をしかるべき所に内部告発した事もある。内情を話せば、内部告発する気は当初は無かったが、話の流れで結果的にそうなってしまった。しかし、私が告発したのは事実である。
 そうしたら、私の名前が告発した相手に分かってしまって、私はそれ以来、三年間も干される事になった。私は自分がした事は内部告発であっても、それは自分の中の神の判断に基づいて行った自信があったから、自分のした事に何ら後悔は無かった。だから、自分がその後に被害を被る事は無いとたかをくくっていた。しかし、そんな事はなくて、やはり、「切る者は切られる」の心の法則が厳然と働いて、私自身が組織から切られる事になったのである。

 しかし、私はそうした中で学び、鍛えられ、段々と他の人の良い所を観て、賛嘆する事の素晴らしさ、尊さが自分の内側から自ずと分かる様になって来たのである。これは無理に他の人の実相を観ようとか絶対に他の人を批判しないとかそうした「ねばならぬ」の信仰でそうなったのではなくて、「そのまま」で居て、自ずと色々な体験を経る内に出来る様になって来たのである。だから、実相が出て来るという事は常に自分の心、行動を「こうでなくてはならぬ」とがんじがらめにする事ではなくて「そのまま」でいて、相手を攻撃したり、批判したりする事が例えあっても、それで観世音菩薩の働きでやはり、自分も攻撃されたり、切られたりする中で自ずと自分自身のそのままで完全円満の実相が自ずとより分かって行き、それと同時に他の人の実相の素晴らしさも徐々に分かって行くと言う形で成就されて行くものである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-11-18 12:38 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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