実相は自分で出て来る(26)

 実相が出て来るのは自分で出て来るのであって、外側から我(が)が自分で取って付けて、何とか様になって行くのではない。例えば、暗黒面を観るのではなくて、光明面を観て、感謝するという事も我(が)で努力して訓練して行く事も一つの道であろう。
 しかし、それは生長の家の初期の人がやるやり方であって、本当の事を言えば、吾等のそのままで完全円満の実相が自分で出て来て、自ずと内側からやれる様になるのが本来である。

 私は生まれつきの性分が完全主義であり、それは良くしよう、良くしようという心であった。良い所が99%であっても残りの1%に欠点があるとそれが気になって気になってしょうがなくなり、「これさえ良くなれば」と言う事でその悪い微細な部分に引っ掛かって、悶々とするのである。
 そして、その微細な欠点は心が引っ掛かれば引っ掛かるほど、大きなものに感じられ、そうなると今そのままで多くの恩恵を受けていながら、そういう部分は見ないで欠点に引っ掛かって、不足ばかり言う様になった。 この世界には元々問題とか悪なんてナイのであって、あるとすれば、自分の欠点とか悪に引っ掛かる心があるように見せているだけなのである。私はその事が内側から分かって、ようやく悪とか欠点ではなくて、良い所、恵まれている所を凝視してそれに感謝する生活をする事が段々と出来るようになって来たが、それは経験により自ずと内側から私の中の神が自分で出て来る事によって、そうなったのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-12-03 12:10 | 信仰 | Trackback | Comments(8)
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Commented by 道源秀実 at 2009-12-04 17:13 x
貴兄のご文章を拝読していますと、実相と現象が現存するように思っておられるようですね。実相が出てくるとか、実相を顕わすとかの表現をなさっている。それこそ貴兄が仰っている引っ掛かかりです。現象界は如何にあろうと実相完全円満は今ここに有る自覚が必要であり、その自覚を持てば、そのままで実相が顕れるとか顕れないとかは、ないのであります。現象界は全て過去の心の現われであり消え去るものです。たとえ実相が顕れたとしましてもそれは現象ですから消え去るのです。此処がこのまま実相円満である自覚が大切です。そのように説き方、は大切であり、それが間違っている場合はお互いに切磋琢磨して行くことが大切であります。その時に「そのままでよろしい」等と云ってしまっては本質を見失う事になります。

どうぞ心を開かれて先に生まれた(昭和17年生まれ)者の意見として一言申し上げました。
 ご活躍に感謝申し上げます。
合掌ありがとうございます。
Commented by koujihori at 2009-12-04 18:59
道源様

 ご助言有り難う御座います。

>現象界は如何にあろうと実相完全円満は今ここに有る自覚が必要であり、その自覚を持てば、そのままで実相が顕れるとか顕れないとかは、ないのであります

 正にその通りですね。でも、実相は無限の躍動であり、それは表現を欲します。今、ここに既に展開していながらも無限に表現し続ける。そして、新たに生長し続けるものです。それを我(が)が無理に行うのではなくて、実相はそれ自体、無限生長であるが故に自分で出てくるのです。でも、それは「そのまま」でもありますが「のらくら怠けほうける」というものでもない。神に生かされ、守られながら、全力であり、命がけです。その全力であり、命がけそのものが真実の自分であり、実相そのものです。

 
Commented by 道源秀實 at 2009-12-09 09:39 x
合掌ありがとうございます。
>>無限生長であるが故に自分で出てくるのです。<<

この表現を先生は多様されますが、>>自分で出てくるのです。<<とはどう言うことでしょうね。
具体的にお教え頂けますか。
そして先生のブログでの教えは先生のお悟りでしょうか、それとも生命の実相の中の真理なのでしょうか、ご文章の最後にやはり出所を書いて頂きたいものです。先生が尊敬なさっていた宇治の榎本敬吾先生も話の中で度々「これは自分が言うのではない谷口雅春先生の教えです」と仰っていました。教えの出所をハッキリする事は大切と思います。でないと堀教になってしまい、現総裁雅宣先生にも失礼と思います。

Commented by koujihori at 2009-12-09 09:50
道源様

 私は榎本先生の薫陶を受け、先生は吉田國太郎先生、服部仁郎先生の薫陶を受けられました。生長の家は本だけでその真理を悟るというのは余程の天才であるとは雅春先生のお言葉です。やはり、具体的な師につく事が大事であり、そういう意味で私は師によって、現在の心境に至らせて頂いたので決して堀教などとは思っていません。

 実相は自分で出て来るというのは榎本先生に教えて頂いた事であり、服部先生も同様の事を仰っておられたそうです。ですが私は先生の単なる受け売りをこの場に書いているのではなくて、正にその通り「私の実相が自分で出て来た」事によって、色々な事が内側から分かった事をここに書きつづっているのです。「実相は自分で出て来る」という事とはどういう事なのかについては私のブログをお読み頂けますか?
Commented by 道源秀實 at 2009-12-10 00:16 x
ご自分が素晴らしい体験をされたのは、多くの先生方のご恩があっての事である事を人様にお伝えされることが大切と思います。師の受け売りではない!自分の体験話だと言ってしまっては、傲慢の誹りを受けても、素晴らしい方だとは、思われません。そうすると、「私は素晴らしい方だと人に思ってもらわなくても良い」と言われるでしょう。そうではありません、そのように思わせる事が罪なのです。そのへんをよくご理解下さい。谷口雅春先生でも私が説くのでは有りません、神様の肉体的代弁者ですと仰っていました。ラッパとも仰っていましたね。
Commented by koujihori at 2009-12-10 00:30
道源様

>師の受け売りではない!自分の体験話だと言ってしまっては、傲慢の誹りを受けても、素晴らしい方だとは、思われません。

 そんな事ないですよ。受け売りというのはその人の実体験ではなくて「人ごと」です。榎本先生はかつて私が先生の教えを受けた後に私自身の中から真理の言葉が私自身の言葉で出て来て、それをで文集にしたためて先生に贈呈したら「有り難う」と吾が事の様に悦んで下さいました。

 真に人を救ったり、導くというのはその救った相手がいつまでも自分に頼っている状態ではなくて、その自分が真理を伝えた相手が何の外側からの助けが無くて内側から自ずと立つという状態にならしめるものです。そうなることが教えを受けた弟子としての最大の師への恩返しになるのです。
Commented by 道源秀實 at 2009-12-12 00:15 x
合掌ありがとうございます。

>>贈呈したら「有り難う」と吾が事の様に悦んで下さいました。<<

これは榎本先生の貴兄に対する素晴らしく大きな愛です。その辺を是非ご自分のものになさって下さい。

それからですね自分が師の教えを受ける場合とそれを人様にお伝えする場合とは自ずと表現は違います。これは宗教上以前の問題であり人としての品格であります。たとえ自分が悟りの境地に有ろうとも謙虚な真心で人様にお伝えする事が自然と出来る人こそ素晴らしい指導者だと思います。何度も申します、「谷口雅春先生は自分は教祖ではない私も皆様と同じ求道者です」と、このお言葉は堀先生はどのように受け止めになられますでしょうか。
再拝
Commented by koujihori at 2009-12-12 21:49
道源様

 誠に申し訳ありませんがこれ以上のあなた様とのやりとりはちょっときりがないような感じがしますのでこれでもうやめませんか。
 今までのコメント有り難う御座いました。
<< 人の言うことを気にするな 迷いは神が消して下さる >>