真の懺悔とは

 前回も述べたが吾々は人生を生きている上で自分で生きているのではない。神が吾をして生き、かつ行動しているのである。だから、後悔なんて事は実は要らないのである。自分は行った事は神が行った事であり、自分が言った事は神が仰った事である。
 それを自分が生きている、行動している、喋っていると思っていると常に自分のして来た事、言った事が果たして良かったのかどうかという悩みが出て来る。自分が生きていると思うから、自分の行動も不完全に見えるのである。その心の影が映って自分の人生が色々な間違いとか汚点とか罪に感じられるのである。

 しかしながら心の綺麗な人でその上、生長の家をやっている人ほど、こうした後悔をするものである。何故なら第一創造の神のお造りになった実相世界は完全円満で何の間違いも無いが、第二創造であるこの現象界は「私が」「自分が」心のレンズを綺麗に真っ直ぐにする責任があるから、是非私がそうしなければならないなんて考えるから、常に私が心を清め、行動を正しくし、言動も正しくしなければと言うことになる。
 しかし、その時点で「神に生かされている、自分は今、神である」という自覚が無くなっているのである。そこに我(が)が知らずの内に生じ、常に力み、戦々恐々とし、自分の行動が良かったのか悪かったのかという事で煩悶するのである。
 その迷いが映って自分の人生がますます歪んだ、間違ったものに感じられるのである。そういう考えとは「心もアル」「現象もアル」という迷いであり、それは生長の家の本当の考えとは違う。真実の存在は神のお造りになった第一創造の実相世界であり、第二創造の現象世界もそれを造り出す自分の心もナイ!というのが生長の家の真理である。

 その悟り即ち現在の自分即ち神であり、従って自分のして来た事、言ってきた事全て神であるという悟りである。その事が分かれば今まで間違いだらけに見えてきた自分の人生が神に導かれた完全なものであると分かる。それは表面的には色々失敗もあるだろうがそれが結局全て実相顕現につながった祝福すべき道程であった事が分かるのである。

 しかし、真の反省というのはある。それが真の懺悔であるが、それはどういうものかと言えば自分の自覚が進んで今までの自分の考え方が間違いであったと分かる事である。それは後悔なんてものではなくて、今までの迷いの雲が吹っ切れたこの上なく爽快なものである。それが真に罪が赦される事である。今まで完全円満である自分の本姓を悟らず、自分は悪い、自分の心も現象もアルと思っていたという本当の罪が剥落したのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-12-14 12:23 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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