人生は全ての経験が最高である。

 たまに「人生をやり直したい」なんて言う人がいる。自分の半生を顧みるに失敗ばかりであり、又、後悔する事、今から考えると顔から火が出るほど恥ずかしいなんて思い出もあり、「あの時、ああ判断し行動したのはまずかったのではないか」とか「あの時、ああすれば良かった」とか何とか思い煩って、煩悶する人もいる。
 そういう人は又、自分の将来とかそうでなくても近い未来、例えば今日はあの人とあの件で面談するがどう言おうかとかどのように切り抜けようかとか色々取り越し苦労して心配する人もいる。

 これらは全て自分の人生は自分という我(が)が生きていると思うから、色々後悔するし、迷うのである。しかし、人間は神の子完全円満であり、人間は神の子完全円満であると言う事は今の事であり、それは裏を返せば何時如何なる時も吾等は神の子完全円満であるという事になる。そうなると自分の人生は自分で歩んできたもの、もしくは自分が歩んで行くものではなくて、神が歩んできた事、又は歩んで行くものであり、だから人生は人生ではなくて、神生なのである。
 それを悟る事を実相を悟るというのであり、それを悟らないで自分は自分で生きているのであると思っている人は人生が頼りなく不完全な間違いだらけのものに感じられる。そして、自分の結婚相手は果たして本当の魂の半身だったのだろうか、あの時勢いで何となく決めてしまった様なとか又は自分にはもっと別のふさわしい相手がいたのではないかなんて考え出すのである。

 しかし、それは全て迷いである。それを心のレンズの歪みと言うのである。吾等は表面上は色々紆余曲折はあっても、今、このままで神に生かされ、導かれ、百点満点の人生を歩んでいるのである。
 私は14年前に自律神経が具合が悪くなった事により、野球とかソフトボールでボールがまっすぐ投げられなくなった。それでその後、宇治の生長の家の道場で救われる事になり、大方は精神的にも肉体的にも回復したが、このボールがまっすぐ投げられない状態は中々改善しなかった。そして、地元の子供の学校の父兄のソフトボール大会とか野球大会に行きがかり上、どうしても出なくてはならず、でもボールがまっすぐ投げられないからキャッチボールがまともに出来ないのでそれはそれは肩身の狭い思いをしたものである。
 しかし、それが良かった。その事が真理というものを行ずる上で一番大事な事、即ち捨身、全託という事を私に教えてくれた。裏を返せばそれまでの私はそれが出来ていなかったから自律神経も具合悪くなったのである。
 具体的に言うとその事で自分が身体、事に上半身や右腕に余計な力が入っていた事が分かり、それが更に自覚が進んで自分が本当に捨身の心を行じていなかった事、即ち今、そのままで自分が完全円満、無限力を行じておらず、良くしよう良くしようという心が自分にあった事が心底分かったのである。
 その自覚をその後、日常生活のあらゆる場面で「今、完全円満」「それ故の全託、捨身」を行じて行った事により、私の身体から大部、余計な力が抜け、臍下丹田に重心を落とした姿勢、状態で生活する様になり、その事がより私の精神を柔軟に強くし、肉体の状態も改善して、今ではあらゆる事で力を発揮出来る様になるきっかけになったのである。
 誠にもあの人前で恥をかいたキャッチボールがまともに出来ないという経験があったればこそである。私はそれで決して後ろ向きに成らず、その事で学んだ事を日常生活で必死に行じて行ったからこそ、今の私があるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-01-20 12:31 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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