因縁を超越する。

 吾々は因縁と言うものがある。現象生活において、生活して行く上で自分がある行動をして、それが集積して、因となり、そして何らかの縁を得て、結果としての果を生じる。これを因縁果と言うが、吾々はそうした法則の下に生活しているのである。しかし、何時までもそれに縛られていては駄目なのである。
 「やられたらやり返す」とか「目には目を」「歯には歯を」などと言う連鎖があるが、この連鎖の中から抜け出されなければ人との争い、部族間の争い、人種間の争い、宗教間の争いなどは永遠に果てしが無いのである。「あいつは自分の家族を殺したから報復してあいつの家族を殺してやるんだ」と言う考え方である。又、自分は過去に子供をこれだけ堕ろしたから、自分もその回数だけ殺されなくてはいけないなんて言う考え方もある。それは自分が現世において犯した罪であるから、憶えているが、吾々は生き通しの生命であるから、前世もその又前世もまたまたその前世の前世もいくらでも人生を生きてきているのであり、その中でどれだけの罪とか間違いを犯しているか分からない。それを全部、清める為に自分はどれだけの同じ目に遭わなくてはならないなんて事になったら、果てしが無いのである。

 要するに悪いものをアリと認めて、それを一つ一つ償う事により、消して行くのであればどうにもならないのである。吾々はいつかはそうした因縁を超克しなくてはならないのである。その超克する道が生長の家の教えにはある。それは「現象はナイ」「肉体はナイ」の教えである。吾等はこれらがナイと一喝する事により、今、そのままであらゆる因縁を超越する事が出来るのである。要するに因縁を繰り返して少しずつ良くなっていく肉体はナイ!と一刀両断にするのである。そうした因縁を繰り返しながら自分を良くして行こう、償って行こう、清めて行こうなんて世界などは本来ナイのであって、今ここに始めから完全円満なる自己の生命を感得する所に因縁を超越する道がある。
 即ち因縁の繰り返しによって生きているこの現象の肉体をナイと一刀両断にして、今そのままで始めから完全円満であった自己の生命の実相に飛び込めば良いのである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-01-21 12:26 | 信仰 | Trackback | Comments(2)
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Commented by 三谷文人 at 2010-01-25 01:40 x
 有難うございます

 食物を例にとっても、私達は今まで多くの生命を頂いて生かされてきましたね。「殺す者は殺される」、「奪う者は奪われる」という因果の世界に生きている限り、どれだけ罪を償っていく必要があるのか分かりませんし、また新たな殺生の業を生んでいくことになります。
 殺生の業の輪転を絶ち、真に平和な生活を実現する為には、「現象ナシ」、「殺生ナシ」の世界へと入って行くことなのですね。

 昨日の誌友会は、お酒の話がテーマみたいで楽しかったですよ。
Commented by koujihori at 2010-01-25 09:18
三谷さん

 昨日は誌友会、ご出席有り難うございました。座談会では最後に僕も真理に関しての思いというか体験を話そうと思っていたのですがお酒談義が盛り上がっていたのでそういう雰囲気ではなくなりました。でも、S先生、やくざ相手に喧嘩をして叩きのめしたなんてすごいですね。いくら喧嘩が強くてもやくざ相手ではちょっとと思ってましたから。それも組の事務所に行って洗濯代をもらって来るなんてね。
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