人に良く思われたい気持ち

 生長の家の神示に「使命邁進の神示」というのがある。それには「人がどう思ふかも知れぬと、そんなことばかり気にかけてゐるやうなことでは心の苦しみは絶えぬものだ。自分がどの位愛したか、自分がどんな仕事をしたか、そればかりを考へるが好い。」とある。

 何時かテレビで観た事があるが、外国の例だが、ある男性が自分を医者だと偽り、ある女性と結婚し、その後の結婚生活も自分が医者であるとして、その様に見せかけて、ずうっと暮らしていて、その際、相当な手の込んだ細工を生活の中でやって行って、確か犯罪めいた事さえ手を付けてしまったなんて実話が紹介されていた。その人が医者でなかった事がばれた時、どうしてそんな事をしたかと言ったら「周囲の期待を裏切るのが恐かったから」と言うのである。

 私はこの男性の気持ちが実は良く分かるのである。私も「人に良く思われたい、人から失望されたくない」と言う気持ち、自意識が生まれつきかなり強い方だと思うからである。実は私はこの「人から良く思われたい。自分のイメージを保ちたい」という自分の弱い気持ちといつも戦っていると言っても過言ではない。
 それは私に取って、生涯のテーマである。しかし、私のその気持ちがどこから来るかというのが50歳を過ぎた今頃になって段々自分で分かって来た。それは「良くしたい」という我(が)の心である。「そのまま」に自信が持てず、何としても良くしたいという我(が)の心が「人からの自分のイメージを保ちたい」とかそういう事を考えるのである。それは先日の講師昇格試験を受験した事により、自分にそういう結果を求める心、良くしようとする心が強烈にあった事が自分で分かったのである。そういう心は間違いで結果は神に全託するという心が大事であると私は神様に教えて頂いたのである。

 取りも直さず、それは「裸のまま、そのままの自分」を完全円満であると認識せずにそれをそのままでは不完全と認識して、それをちょっとは増しなものにしようという心であり、それが旧約聖書にあるアダムとイブが裸でそのままで幸せに暮らしていたのを自分が裸のままでは不完全であると気がついて、それから無花果の葉で自分の身体を覆ったという神話に象徴されているのである。即ち、吾々は裸のまま、そのままで完全円満なのである。その事が分かれば、それを良くしようとかしてあくせくする事が無くなる。

堀 浩二
by koujihori | 2010-02-05 12:32 | 信仰 | Trackback(1) | Comments(2)
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Tracked from 渋川よしゆきの離婚 at 2010-02-06 09:18
タイトル : 渋川よしゆきの離婚
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Commented at 2010-02-07 04:24 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by koujihori at 2010-02-07 10:44
シークレットコメント様

 応援の暖かいお言葉有り難う御座いました。これからも宜しくお願い致します。
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