生長の家とは何か(13)

 生長の家というのはその神髄は不立文字であり、文字で立てられるものではない。生長の家の聖典でもその一言一句そのものが生長の家の真理そのものではなくて、その文字、文章の織りなすものの奧にある真理の精髄を感得しなくてはならない。谷口雅春先生は文章の芸術家であり、その文章力が卓越していたから、そのご自身のお悟りを表現するその表現力が素晴らしく、それを繰り返し拝読し、その書かれている事を生活で実践して行く内に不立文字の真理を吾等が感得出来る様になっている。だから、その御文章そのものではなくて、それらの御文章によって表現されたるその奧の不立文字に真理があるとして、吾等は求道しなくてはならない。

 ところで生長の家の信仰、求道にも段階がある。入門編みたいな段階がある。それはこういう祈りをやりましょう。こういう良いことをしましょうとかそういう道徳的な説き方である。そうでないと初心者にはとっかかりになるものがないからである。そして、大方の生長の家の会合とか講演会で説かれているのがこの初歩の段階のものであると言って良い。しかし、それが生長の家の神髄だと思ってはならない。更に進んで「今ここそのままで神の国である。自分が今そのままで神であった。」という所まで悟りを深めなくてはならない。聖典「生命の実相」を良く読むとその生長の家の神髄がその全編を通じて、流れている事に気がつく。

 このブログではその生長の家の神髄ばかりを説いている。だから、ちょっと他の生長の家の講師の人の話す内容と異なる場合がある。私は幼い時から生長の家に触れ、その後、求道の生活に入り、生長の家の運動を学生時代から始め、求道と伝道をひたむきにやって来て、ぎりぎりの所で神のお導きにより宇治のA先生に巡り会い、それでその生長の家の神髄を授けられたのである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-02-12 12:07 | 信仰 | Trackback | Comments(14)
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Commented by HAYASE(HonnE) at 2010-02-13 20:11 x
堀さんは、総裁先生のブログに次のように投稿しましたね。
「神意に従うという事が理想であり、それが日本建国の理念の基礎になっているのですね。それが又、生長の家の目的と合致している事がとても素晴らしいし、有り難い事だと思います。」

生長の家の創始者である雅春先生は、次のような文章を残しています。
「・・・吾等にとって刻下最も必要なのは、日本国の使命(実相)を信ずるということと、その信念に全国民が一致団結するということであります。その目的のために国民思想を作興すべく生まれたのが『生長の家』であります。」
(谷口雅春著「古事記と日本国の世界的使命」159頁)

この雅春先生の文章から、生長の家の目的が何なのかがわかります。(※もちろん、これだけということではありませんよ)
「生長の家とは何なのか」・・・私たちの知らないことはまだまだあるかもしれませんね。
Commented by koujihori at 2010-02-15 09:35
hayaseさん

 コメント有り難うございました。繰り返しになりますが日本の使命と生長の家の使命が同じであるという事が大変有り難く素晴らしい事ですね。
Commented by hayase at 2010-02-15 13:09 x
堀さんは、掲載した雅春先生の文章を理解していませんね。
生長の家の目的と合致という次元ではありません。「生長の家とは何なのか」のタイトルでブログを書いている時もあるようですから、生長の家の立教の経緯を雅春先生の文章から勉強し直すよう希望します。
Commented by koujihori at 2010-02-15 14:13
hayaseさん

 私があなたに言いたいのはこういうネット上のやり取りでは言葉の使い方に気をつけて下さいという事です。そういう問題はあなたが問題にしている事より大事だと思いますよ。


Commented by koujihori at 2010-02-15 15:10
hayaseさん

 ところで生長の家に関して、色々こだわりがある様ですがこれは頭でとらえようとしても出来ませんよ。一番良いのは自分で生長の家を体験する事です。
Commented by 川島龍一 at 2010-02-15 19:44 x
>生長の家というのはその神髄は不立文字であり

とあなたは断言していますが、谷口雅春先生がいつ、あるいはどのご文章にそのように断言されておられますか。

それから、不立文字と言うのならば、貴殿が繰り返し同じような文章を、あたかも「これこそ真髄だ」書き込んでいるコトバは、文字ではないのでしょうか。榎本恵吾氏の指導した内容も言葉ですね。
貴殿はそれによって導かれて病苦を癒された。すばらしいことだと思います。そこで質問ですが・・・
たとえば聖経にしましても大調和の神事等にしましても、それそのものではなく行間を読めとおっしゃるのでしょうか。
行間の感じ方はあくまでもその人の主観が入り込みますから、それはいよいよ真理とはいえないと思います。
つまり、あなたの主観で解釈する生長の家。だから堀教です。
貴殿の文章を読むと生長の家風の堀教のように思えます。なんともいえない違和感を感じます。
それから、貴殿は酒を飲んだ話は出てきますが、神想観が抜け落ちているように思えます。神想観もコトバの力です。念じるコトバにも行間があるのでしょうか。さっぱり分かりません。
Commented by 続き at 2010-02-15 19:49 x
>このブログではその生長の家の神髄ばかりを説いている。

これには驚きました。雅宣先生でもいえない言葉ですね。
やはり、堀教のように感じます。
Commented by koujihori at 2010-02-15 21:53
川島様

 この様な無礼なコメントは削除しても良いのですが、でもこの事にお答えするのは他の方にもご参考になると思うのでお答え致します。
 ところで真理の精髄というのは不立文字であるのはちょっとまともに考えれば分かる事です。仏教では釈迦の教え、説教を一言一句暗記していた阿南が釈迦から後継者と見なされず、行第一の迦葉が後継者と見なされたのは文章や言葉そのものが真理そのものではないという事ですね。形に表れた文章や言葉は宇宙の真理の精髄そのもののコトバなるものが正に一つの形態、表現として表れたものです。だから、宇宙の真理そのものである神のコトバの現れであるから、それは一つの力を持ちます。だから、真理のお経である「聖経」とかには人を悟りに導く力があります。
(続く)
Commented by koujihori at 2010-02-15 21:55
川島様

でも、それも一つ一つの言葉、文章は真理そのものではなくてあくまで表現としての言葉です。そもそも真理そのものは無限であるというのは分かりますね。
それはあなたも否定しないでしょう。それではお経とかに書かれた表現体としての言葉は無限だと思いますか?そうではないでしょう。無限の内容を持つ真理そのもののコトバが言語としての表現された言葉となる時は限られたものなります。
それだから、「人間は神の子である、物質は無い」という真理をあらゆる表現の言葉を使って表現されたのが雅春先生であり、それが聖典「生命の実相」40巻になるわけですね。
(続く)
Commented by koujihori at 2010-02-15 21:57
川島様

多分あなたを含め、あなたの様に真理は不立文字であると雅宣先生や清超先生が仰っている事が雅春先生とは違う事を仰っていると反論する人の論拠になっているのは雅春先生の「生長の家は古来、不立文字と呼ばれて、以心伝心でしか伝承出来なかった真理を言葉を立て、現代語で分かり易く説いた所に生長の家の特徴があるのであります。」と言う御文章に引っ掛かっているのだと思います。でも、それは先生が文章力が卓越していたので真理をあらゆる角度から分かり易く説く事が出来ているという事を仰っているので、「生命の実相」に書かれている日本語が真理そのものであると
仰っているのではありません。「生命の実相」40巻を通してあらゆる表現で表された真理の言葉が曼荼羅の様になって、それで全体で宇宙の真理をほぼ完全に表現出来ているという事であります。
(続く)
Commented by koujihori at 2010-02-15 21:58
川島様

 それと雅春先生がどこで真理は不立文字であると断言しているかと仰いますが、これは「生命の実相」第33巻の51ページに不立文字であるとは仰っておりませんが明確に説かれてますよ。「宗教でもやはり同じことであります。悟りというものは目で見る事が出来ない。真理というもの、真如そのままというもの、ありのままというものは目で見ることが出来ないのです。目で見る事が出来ないから、(中略)吾々が真如、実相を悟りましてもそれはどうしても現象界を言い現す日常用語をもってしては表現する事が出来ないのです。・・・」とあります。
(続く)
Commented by koujihori at 2010-02-15 21:59
川島様

 それから堀教なるものなんて存在しませんよ。あなたが勝手にそう感じているだけです。私は生長の家の信徒として求道して来て、その悦びをここで表現しているだけです。私が「ここでは生長の家の精髄ばかりを説いている。」と書いたのは生長の家の真理には色々な段階があり、初期段階のものもあるという事を言いたいのと初期段階の事ではなくて、真理の精髄をここに書いているから他の生長の家の講師の仰る事と異なると感じる事があるという事を説明したかったのであり、又、求道されている方に何時までも初期段階にいないでその精髄を悟って欲しいという事を特に生長の家を一所懸命されて、命懸けの求道をされている方の為に自分が到達する事の出来た事で少しでもお役に立てればと思って書いたのですよ。
この様に言葉というものはその言葉だけを断片的にとらえると訳が分からなくなります。全体の文章の流れ、背景そうしたものをふまえた上で判断しないと非常に間違う事になります。
Commented by 川島龍一 at 2010-02-16 02:13 x
私の書き込みを無礼だとおっしゃいましたね。

そのようなことを言うことが「堀l教」だと私が判断する所以です。
たくさんと書いてくださいましたが、一つとして私の質問には答えていませんね。大切なことだけ再質問します。

生長の家の神示や聖経は、そのまま真理ではありませんか。
いかがですか。

>この様に言葉というものはその言葉だけを断片的にとらえると訳>が分からなくなります。全体の文章の流れ、背景そうしたものを>ふまえた上で判断しないと非常に間違う事になります。

堀さんはおっしゃっていますが、私が書き込んだ内容について貴殿も同じような間違いを犯して判断していないという確証はありますか。それから
生長の家の真理には色々の段階があると申されますが、真理に段階があるのですか。
それからもう一つ、私は命がけで真理を求めていないとどのように感じ判断されましたか。

 
 

Commented by koujihori at 2010-02-16 09:33
川島さん

 私があなたに申し上げたい事、それからあなたの言い分に関しての私の答えは全て言い尽くしていると思います。もう一度、私の文章を読み返して頂くしかないと思います。
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