生かされている(11)

 吾々は自分で生きているのではない。生かされているのである。自分が生きていると思う人はこの人生に色々出て来る様々な諸問題に自分がこれを切り開くのだ、自分が対処するのだ、自分が解決するのだと思う。そうなると段々疲れてきてにっちもさっちも行かなくなるのである。それで「私はもう疲れました」とか何とか言って、ものごとを止めたり、はたまた人生そのものを止めたくなるなんて事もある。

 これらは全て「私が生きている」と思うからである。吾等は生きるのではない、生かされるのである。その事が分かった時、一切の凝りが抜け、身体から余計な力が抜け、そして内側から何とも知れない力強さと悦びを感じる。その実感が「感謝」である。「あー、有り難い。生かされていた。導かれていた。」という満腔の感謝である。そこには「私が」という我(が)はこれっぽちも存在しないのである。そして、それが真の生長の家である。

 そして、その何とも言えない神に全面的に支えられた全託の心地よさの信仰がそのまま勇気である。勇気とは姑息にものごとを自分の思い通り、望み通りに絶対しようとして、自分の判断も天の配剤も信用せず、我(が)の力で無理矢理、絶対に安心な道を確保しようと言う心を捨て、神に全託する心であるからである。
 それに反して、無理矢理良くしよう、生きようと思う人の心は地獄である。宇宙を貫く完全円満、無限なる神に生かされ、守られているという事を自覚せず、姑息に我(が)の力でものごとを良くしよう、安全にしよう、病気が治ろう、息子をいい学校もしくは会社に入れようという心持ちだからである。
 吾々は真の幸福はそうした無理矢理な我(が)の欲望から来るのではなくて、神に全託して神に生かされる中から自ずと来るものである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-03-19 12:31 | 信仰 | Trackback | Comments(5)
トラックバックURL : http://joyfulness.exblog.jp/tb/10879130
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
Commented at 2010-03-19 23:58 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by koujihori at 2010-03-20 09:32
シークレットコメント様

 それはやはり自分で生きようとしているからです。人は誰でも人から認められたいと言う気持ちは自然とあるのです。でもそれを何としても自分の力でそうさせようと思うのが我(が)です。我(が)には何の力もありません。だから、あなたは外にも出られなくなったし、人と相対しているのも耐えられないのです。それは我(が)が崩壊している結果です。だから、神が全て生かしてくれると信じて、神に全託してごらんなさい。神があなたの悩みも消して下さいますし、その内、外にも気分良く外出出来る様になります。でも、その神の内側からの生かしはあなたの意識的な勇気となって出る事もありますから、そういう時は勇気を出して、相手に立ち向かって下さい。恐怖心は神が取って下さいます。そうした事を繰り返して行く内に段階を追って、自ずと訓練が進み段々あなたは当たり前に人と相対して普通に話せる様になります。
Commented at 2010-03-20 23:24 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by 三谷文人 at 2010-03-22 21:33 x
 有難う御座居ます

 >吾々は真の幸福はそうした無理矢理な我(が)の欲望から来るのではなくて、神に全託して神に生かされる中から自ずと来るものである。

 「私が生きている」という我(が)を滅すれば、神意(みこころ)がそのまま自己を素通しする。これが真の幸福ですね。

 それから、お母様の健康が回復されて本当に良かったですね。その体験談は、全託の信仰の良きお手本になります。
Commented by koujihori at 2010-03-23 10:55
三谷さん

 有り難うございます。この我(が)を滅する生き方の訓練をやって行くのが吾々に与えられた永遠の課題ですね。
<< 我(が)は要らない。 結局は己しか信ずるものは無い。 >>