我(が)は要らない。

 私の尊敬するA先生は御講話の中で「実相は自分で出て来る。我(が)は要らない。」と良くお説きになっていた。それまで私が色々な生長の家の先生のお話を聞くと「この現象世界は神が直接お造りになった世界ではなくて、吾々人間の念が作った所の第二創造の世界であるから、吾々は神にひたすら心の波長を合わせる為に不断に心を清めて行かなくてはならない。」というお話ばかりであったので、榎本先生のお話を最初に拝聴した時はちょっと違和感を感じた。しかし、それと同時に何とも言えない穏やかな悦び、安心感に満たされたものである。

 しかしながらこの榎本先生のお説きなった境涯こそが真の生長の家である。それは「無門関」に通ずるものであるし、真理の精髄である。ちなみにA先生は生長の家の草創期の谷口雅春先生の真の高弟である吉田國太郎先生と服部仁郎先生に師事して、薫陶を受けられたのである。
 話が横道に逸れてしまったが、生長の家の神髄は実相独在である。それを直接お説きになっておられるのが吉田國太郎先生であり、服部仁郎先生であり、その流れを受けられたA先生である。それは正に我(が)は要らないという事である。
 
 吾々はひたすら神に生かされている。全ては神に生かされ、私なるものは露ほどもない。私が祈ったとか、私の信仰などというものはナイ。ただただ神の生かしのみがあるのである。それが絶対他力の生長の家の神髄である。
 先日、母親が肺炎に罹り、山と思われた夜に私だけが家族の中で母親の病室に一晩中付き添った。私は自ずと母の実相、そのままで既に救われている完全円満の実相を祈り、実に心地よい安心感と共に眠りこけた。気がついたら母はすっかり元気になっていたが私がその時、実感したのが私の祈りの念力によって母親が蘇ったのではなく、正に母親のそのままで完全円満無限健康の実相が神により自ずと出て来たという事である。私(我)は要らないのである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-03-23 12:33 | 信仰 | Trackback | Comments(2)
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Commented by 久都間 繁 at 2010-03-28 17:26 x
堀さん

>>正に母親のそのままで完全円満無限健康の実相が神により自ずと出て来たという事である

厳しい状況の中から、素晴らしいご経験をされたのですね。拝読していて、その時の様子が伝わってくるような思いがしました。

また、「私(我)」の要らない信仰とは、招神歌(かみよびうた)で歌う「吾が生くるは吾が力ならず――」ということであり、「吾が業(わざ)は吾が為すにあらず――」という絶対他力の信仰であることを、あらためて振り返らせていただきました。
Commented by koujihori at 2010-03-29 09:01
久都間様

 どういう訳か最近、しんどい公案を与えられる事が多いです。でも、これも過去の自分が自分の実相顕現の為に作成している課題だなと思っています。
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