善も執着すると悪になる。

 生長の家の本に「例え善であってもそれに執着すれば悪になる」という教えがある。例えばある人がある組織に属しているとして、その人がその組織について素晴らしい理想的姿、形態を心に描いているとする。しかし、だからと言って、それを何としてもそうしなくてはならないのだと思って、色々画策したり、陰謀を巡らせたりして無理矢理、それを通そうとするのではそれは我(が)である。

 いくら良い事でも我(が)が何としてもやろうと執着するとそれは悪になるのである。それは生長の家の愛行にも言える。あの人を何としても救いたい、供養したいという心持ちが起こるのは良い。それはそう思う人の愛念が元になっているからである。しかし、だからと言って、何としても救おうとか供養しようと固執するのは褒められたものではない。それは我(が)であり、そうなったらそこに神は無く、悪になるのである。
 吾等は何時でも実相独在の信仰に立ち還り、そのままで救われている全人類を拝み、全ての行い、愛行、救い、善きことは神がなさるのであるという基本に返って、神に全託する事が大事なのである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-03-25 12:27 | 信仰 | Trackback | Comments(2)
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Commented by yutaka★hajime^^ at 2010-03-25 22:25 x
>それを何としてもそうしなくてはならないのだと思って、色々画策したり、陰謀を巡らせたりして無理矢理、それを通そうとするのではそれは我(が)である。

同感です。
同じように、こんな例もあります。

例えば、ある人が、他を喜ばせることが好きだったり、得意だったりする。でも、その人が、周囲の人々など、身近な人々に喜ばれるような働きかけをして、その答えを自分が実感できているかどうかで評価しようとしている時、それは、自分の喜びをひたすらに求め、追いかけて努力を続けているので、結論として、自分のためにやっているだけ!ということになる。

僕の持論としては、他のために喜ばれたいなら、その対象となる他を中心に事を進め、その他が喜ぶ姿や状況を見て、後から自分が喜ぶべきである。
先ず、最初に他の喜びがあり、その後に、自らの喜びが追随するのである。
『先ず神事、後に他事』 という、真理に似ていますね。

な~んちゃって、お久しぶりで、長々とスミマセン…。(汗)
Commented by koujihori at 2010-03-26 11:55
yutaka★hajime様

 そうですね。神の愛は夜露の様なものだとも言われてますね。夜露は誰にも認められなくても万物を潤すのですよね。ただ与えるこれが神であり、真の愛ですね。
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