南泉斬猫

 無門関の公案に「南泉斬猫」というのがあり、東西に流派が別れて争っている僧達が一匹の子猫を前に「猫に仏性ありやなしや」と言い争っているので南泉和尚が猫を切り捨ててしまった。猫ごときの事で形にとらわれてなんだかんだ言い争いしている僧達を戒めたものだが、それを聞いた逍州は頭に草履を載せたというのは「そんな猫という形を斬って捨てなければ悟れないようでは困る」という事を言っている。それと共に南泉自身も東西の僧達が言い争っているのを何とかしたいとか悟らせたいなんて事にとらわれる、即ち真理にさえもとらわれてはならないとは谷口雅春先生の解釈である。そして、それが生長の家の神髄であると雅春先生は仰っておられる。

 真理さえもつかんではならない。つかんだら最後、その人は自由を失う。とらわれてしまう。一つの相対的立場に立ってしまうのである。吾々は絶対的立場に立たなくてはならぬ。そのままでよい。そのままで絶対的立場であり、神である。

堀 浩二
by koujihori | 2010-05-20 12:30 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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