罪もその報いもナイ

 自分が過去に誰かを傷付けたから、自分もその通りの報いを受け、傷つかなくてはならないなんて事は誰でも考えがちである。そういうのを自己処罰と言う。大体、戦争なんてのも人類の罪悪意識から来る自己処罰の現れであるとは生長の家の教えである。
 しかし、そもそもそういう事を考えるのは人間には罪ありと言う迷いがあるからである。罪アリと思えば、必然的にそれを消すには自分もその報いを受けなくてはならないという事を連鎖的に考え、実際、自分の運命に病気などの不幸を自ら現しだし、自己処罰する。
しかし、そういう事であれば、吾々は今まで何回も生まれ変わって来ているのであり、その間、魂が幼かった頃は人間その他の動物の生命を生命とも思わず、どれだけ残忍に殺しているか分からない。そうなると何回殺されてもそれでも贖いきれないなんて事になるのである。

 しかし、幸いな事に罪とその処罰を超える道がここに存在する。それは罪はナイという生長の家の真理に目覚める事である。簡単に言えば、「悪かった」と心の底から思えた時、その時、一切の罪は消えている。それはそうした事をした自分は本来存在しなかったという実相を悟ったから過去の自分が間違っていたと気付くのである。その点、罪の意識がわき起こって来るのは最初は苦しいかも知れないがそれは悟りの出始めである。完全に罪ナシと分かった時、罪に対する自責の念は自ずと消える。
 自分が誰かを傷付けたり、その報いとして傷付けられたりする世界は本来存在せず、このままで大調和している世界が今、ここに展開しているのを単に自分の心が歪んでそう見えているのに過ぎない。

堀 浩二
by koujihori | 2010-05-28 13:03 | 信仰 | Trackback | Comments(2)
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Commented at 2010-05-30 06:41 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by koujihori at 2010-05-30 09:48
シークレットコメント様

 有り難う御座いました。知りませんでした。有り難い事です。

 ところで発表の件、素晴らしいですね。
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