生かされている(15)

 吾々がこの世界を生きる為には自信が無いと生きていく事は出来ない。会社の仕事を運営するのも、地元の活動を運営するのも家族の事を決めるのもそうである。自分がその組織で責任ある位置にいる場合、又親として子供にどういう教育をしたらいいかとかを決める場合、自分の判断が果たして正しかったのかどうかという事はとても重要な事である。

 そうした場合、自分が生きていると思っていれば、道に迷い、そして一旦自分が選択した事も後悔し、という事にならざるを得ないのである。しかし、吾々が生きているのは吾々が生きているのではない。神が生きているのである。吾々が生きていると思うから取り越し苦労と持ち越し苦労が出て来るのである。今、このままで神が吾をして生きているという自覚こそが「吾、神なり」の自覚である。吾神なりの自覚はこれからせっせと神らしく励む事によってこれからぼつぼつ神らしくなって行くという意味ではない。

堀 浩二
by koujihori | 2010-06-04 12:32 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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