生かされている(16)

 吾々は自分で生きていると思っている限りは後悔と慚愧の念の内に生活するしか無いのである。あの時、あの人にああした事でああ言った事であの人の運命はどうなっただろうとかくよくよ悩まなくてはならない。
 ことに今を生きておらず、何となく過去の事とか未来の事に思いを巡らすとこういう気持ちになるものである。また、何か身内で重大な事件が起こった場合は第三者から見れば、明らかに犯人が悪いにもかかわらず「自分があの時ああしていれば何々ちゃんはああいう目に遭わずにすんだ」なんて一生、自分を責め続ける人もいるみたいである。

 それは自分が生きていると思うから何か不完全なやり残しみたいなものがあるように感じるのである。そして、心が歪んでいるものだからそれがますます不完全な事に感じる。しかし、吾等は一瞬たりとも神から離れた事は無かったのである。否、離れる所か自分が神であり、自分の人生は神の生即ち神生であり、それが実相である。それを自分の心のレンズが歪んでいればそれが自分という我(が)が歩んできた不完全だらけの人生に感じるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2010-07-02 12:22 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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