本当の信仰とは(3)

 生長の家の信仰は最初は知の部分から入る以外無いのである。それは生長の家の聖典をひたすら拝読し、真理を頭脳の知識的に知って行く事である。その中でひたすら行じて行く事で真理を頭脳知ではなくて生命的に把握して行く事が要求される。これは生長の家で提唱している所の三正行の実践の事である。

 しかし、三正行の実践は単なる道しるべに過ぎないのである。本当の信仰は内側から直感的に「これだ!」と魂により直接把握する事である。要するに生長の家の教えは自分の中に実感しなくてはならないのである。そうでなければ全てそら言であるし、生長の家の本に書いてある事が却って自分を縛るものとなるのである。

 自分の実相そのものが生長の家の教えであり、真理そのものである。その自分の実相が自ら内側から出て来て真理を実践し、行ずる様でなくてはならぬ。

 どうしたらそうなるかと言ったら、それはやはり、地道に真面目に信仰して行く事である。

堀 浩二
by koujihori | 2010-07-12 12:24 | 信仰 | Trackback | Comments(2)
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Commented by オオルリ at 2010-07-26 22:25 x
>どうしたらそうなるかと言ったら、それはやはり、地道に真面目に信仰して行く事である。

どうしたら・・・のあとに一言失礼します。
愛行の中に全ての全てがあり、愛行の体験により浄化されていきますよね。 堀さん、少し言葉が足りないところが見受けられますよ。

Commented by koujihori at 2010-07-26 22:42
オオルリさん

 愛行やその他の行は厳密に言うとそれがそのまま悟りの道ではないです。愛行も「これでもか、これでもか」という我(が)の行ではいくらやってもますます真の悟りから遠ざかるばかりです。真の悟りはそれこそ直覚的に「自分が神である。それも今」と直接把握する事です。極論は言えば「愛行なんかしなくても今そのままで神である」という直接把握です。しかし、その直接把握から内側からの真の愛行が自ずと出て来ます。

 でも、どうしてそうなるかと言ったら、やはり、徹底した愛行しか無いのでしょうね。
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