執着について

 この前の日曜日、映画「スターウォーズ・エピソードⅢ/シスの復讐」を観た。スターウォーズファンの私としては待望の映画であり、大変見応えがあった。
 今回は主人公のアナキン・スカイウォーカーが如何にあの悪の化身「ダース・ベイダー」に変貌して行くのかという過程がメインに描かれているが、彼は元々正義を愛する熱血漢の若者だったのにその正義感と愛が我執(がしゅう)にとらわれたものであった為に却って、悪の世界に転落してしまうというストーリーであった。

 このアナキンの様な愛は生長の家の聖典「生命の実相」第35巻、下化衆生遍78ページにも以下の様に示されている。
「・・・愛見の大地とは我が彼を愛するという彼我(ひが)、能愛所愛(のうあいしょあい)の区別を存する愛であって、執着が残っているから、私があんなに愛してやったのに背(そむ)いたなどと言って恨み怒りの原因となる。愛が闇となったのである。(中略)宜しくわれらはかくのごとき執愛を超克しなくてはならない。」

 本当の愛とは既に自分の生命と他の生命が神の大生命において一体であるという自覚であり、それに対し、我と彼との本来一体の霊的生命を観ないで表面の肉体である我と彼とのみを見ている者には我と彼とは一体ではなくバラバラに別れて見えるものであるから、相手を愛そうとする時、相手を無理に自分に取り込もうとするのである。それが執愛である。
 執愛は相手を無理矢理自分の好み通りにしようとするのである。反対に本当の愛は自分の生命と相手の生命が既に一つであるという事を自覚せるが故に相手に執着せず、相手を相手の自由意志のままに解放しようとするものである。
 本当の愛は相手を放して、却って相手から慕われ、執着の愛は相手を無理に自分に縛ろうとするが故に却って相手から煙たがられ、終いにはその相手から去られるのである。

 我々は自分の愛する人々即ち自分の妻、夫、子、親、兄弟そして恋人を本当に愛するならばそれに執着するのではなくて心で放さなくてはならない。そして、この事は対人間に限らず、全てに対して言える事である。
 自分の地位、財産、肩書き、能力そして肉体の健康、これら全てに執着せず、神様に全部預けてしまえ。(念のために断っておくが、これは自分の全財産を一定の宗教団体に捧げてしまえという意味ではない。あくまで心構えの問題である。)これらは元々、全て自分の中の神様から頂いたものである。これらを自分のものだと思って執着してしがみつかないで全て神様にお返しするつもりで心から放ち去れ。
 その時、我らは却って真に必要なものを神様から適宜に与えられるのである。それが生かされているということであり、また感謝ということである。そしてそれが本当の愛の生活である。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-07-14 21:24 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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