失敗してもよい。

 私は今回、ある仕事を絶対に引き受けなければならない立場に追い込まれたのである。しかし、私はその仕事で以前、二回も大失敗したことがあり、その時、非常に責められ、恥をかいたのである。それは私の努力ではどうにもならない程、私にはそれをするのが困難に感じられるのである。
 私は今回、その仕事を再びしなくてはならないということが決まった時、本当に暗い気持ちになった。やらなくてはならないが自信がない。やめたい、避けたいと思うが立場上避けられない私は本当に精神的に追いつめられたのである。

 しかし、私は今日の朝、ふっと思ったのである。「そうだ。絶対失敗してはならないと思うから、大変なプレッシャーに感じるんだ。失敗してもいいじゃないか。殺される訳でもなし。」と。
 私は余りにも我(が)が強くて自分のメンツにこだわりすぎていたのである。そうだ。そんなメンツなんてどうでもいい。失敗しよう。恥をかこうと失敗を積極的に受け入れる気持ちになったのである。
 まな板の上の鯉の心境とはこんなものであろう。そうしたら私の両肩にズンとのしかかっていた重みがスーッと軽くなったような気がしたのである。

 我々はものごとを為す時、完全主義になってはならないのである。完全主義は力みを生み、力みは自分のそのまま本来の生命の自由な動きを妨げ、却って、失敗を招くのである。
 失敗してもよいのである。恥をかいてもよいのである。必ず完全にやらなくてはならないという力みを我々は何事においてもとらなくてはならないのである。以前の文章でも書いたが、我々は「そのまま」であれば、本来神の子無限力であるから適宜に力が出せるのである。判断も出来るのである。しかし、絶対に失敗してはならないと思って、力むと本来の力、判断力が妨げられ、却って失敗してしまうのである。

 失敗を受け入れよ。不完全を受け入れよ。そして死さえも受け入れよ。それらを全て受け入れる時、我らは自由になるのである。失敗から逃れよう逃れようと焦れば焦るほど、却って失敗するのである。死から逃れよう逃れようとじたばたするほど却って、死の虜になってしまうのである。
 死を受け入れ、失敗を受け入れる心になった時、我らは死と失敗の恐怖を超える。そして、死を超越し、永遠の生命を獲得し、失敗を超脱し、全てを完全に行うことが出来るのである。
 失敗してもなおかつ、認められ、愛される自分を認めよ。死してもなおかつ、生き通す自分を自覚せよ。

 失敗を恐れるのは自分が失敗することによって居場所がなくなる、軽蔑される、相手にされなくなると思っているからである。死を恐れるのは自分の肉体が死んだらそれが永遠の死であると思うからである。

 現象的失敗や死はあるように見えても我らは現象の奥に完全円満な神の生命により完全に生かされている存在であるということを自覚すれば、失敗を恐れず、死におびえることがない。それが死を受け入れ、失敗を受け入れる心境になる唯一の道である。

  堀 浩二
by koujihori | 2005-07-15 22:40 | 信仰 | Trackback | Comments(1)
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Commented by みんなのプロフィール at 2005-07-15 23:46 x
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