不測の事態

 今日は土曜日で会社は本来、休日であるが、会社の管理者研修会である。講師を外部研修機関から呼んで、研修担当者である私がセッティング、進行、講師接待等するのである。そして、それが終わったら午後7時から生長の家の信徒の集まりである誌友会という会合で今度は私が講師として話をしなくてはならないというスケジュールである。

 こういうプレッシャーのかかる行事が一日に立て続けにあると私も朝から緊張するのだがそんな中、今朝になって、今日、生長の家の誌友会で使うはずの資料が見当たらない事に気が付いたのである。事前の準備は両イベント共、昨日まで十分に済ませたつもりでいたが、当然あるべき所にあると思っていた資料が見当たらない。
 朝は私は色々やることがあり、神想観という瞑想をした後、テニスの素振りをすることにしていて、今日もそのつもりだったが肝心の資料が見つからない為にテニスの素振りもあきらめた。
 そして、遂に見つからないので、私が元々持っていた予備の資料を代替えにしようと思ってそれを出そうとしたが、何故かそれもいつも綴じてあったはずの所をいくら探しても出て来ない。
 私は頭がパニックになりかけた。こんな事ってあるだろうかと思った。そして、今までだったら自分は何て運が悪いんだろうと自分の運の無さ、そして、この世界の非常さに憤った所だが、こんなに本来の資料、そしてその予備の資料までも忽然と無くなるというのはこれは何か意味があるのではないかと思ったのである。

 私は元々自分の計画通り行かないと途端にいらいらする所があり、通勤のバスの中でも必ず読む本を決めていて、それが思いもよらず、そのバスが混んだりして、本が読めなかったりすると「チェッ」と舌打ちするような所があった。
 しかし、この世界は自分の思惑、計画を超えた不測の事態が起こることなどしばしばなのである。それなのに自分が勝手に決めた計画、思惑にとらわれて、こうでなくてはならぬなんて頑張るのは我(が)である。
 この世界は一見不都合に見えることでも長い目、大きな目から見れば結局それが良かったということがいくらでもある。そうしたことを認める大きな広い心で不測の事態があってもいらいらしないで大局的に対処したらよいのである。
 こうでなくてはならぬと頑張る心は狭い心であり、我(が)の心であり、それが我が儘ということである。どんなに自分に取って不利と見えることでも大局的に見れば、そんなことはないのである。資料が無くなったら探せば良いのである。探してなかったらそれと同じ資料を持っている人に貸してもらうように頼めばよいのである。それでも無かったらそれはそれで神様が何とかしてくれる。こうした大らかな心を持てば、自ずと運も向いてくるし、ものごとも円滑に運ぶものである。
 
 今朝大事な資料が無くなったのは神様が私にそのことを教えてくださる為に神様がお隠しになったのであると私は今、思っている。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-07-30 12:53 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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