天地一切のものと和解せよ

 生長の家の三十三ある神示の中で「大調和の神示」というのがある。それは「汝ら天地一切のものと和解せよ」という言葉で始まり、天地一切のものの本質の神なる生命を拝んで感謝し、和解せよという主旨のお言葉である。

 私は生長の家の信徒であるから、そのことは実行しなくてはならないのだが、その重要性は頭では理解していたが、それがどうも実生活で実行出来ていなくて、前の文章でも書いたが私は割合、人の好き嫌いが激しく、嫌いな人間に対してはその悪い面ばかり見て、心で批判ばかりしていた。

 しかし、その様なことでは段々立ちゆかなくなってきたのである。というのは私はテニスとか野球とか英会話とか生長の家の講師とか実に色々な事をやっていて、それの能力を発揮することに血道を上げているが、それが人との関係が良くないとうまく行かないということが分かって来たのである。
 私は人とうまくやって行くことと、この自分の能力を発揮するということは別物であるとずうっと思っていたので嫌いな人間、仲の悪い人間がいても、自分の能力はそれとは関係無しに発揮出来ると思っていたのである。
 だから、毎日、色々勉強したり、練習していさえすれば、極端に言えば人との関係はどうでもいいとまで思っていたのである。しかし、私は生長の家の講師であるから、よく人前で生長の家の真理の講話をすることがあるのだが、たまに自分が苦手で嫌いな人が相手だと途端にうまく話せず、全然変な拙い話になってしまう事があったのである。また、テニスの試合でも気心の知れた相手だと力を発揮出来るが苦手な相手だと緊張が過ぎて実力の半分も出せなかったのである。

 自分はずっと自分の能力が発揮出来ないのは経験不足、訓練不足によるものであると思っていたが、そうではなかったのである。何かの会合で人前で何かまとまった話をする時、そしてテニスとか野球の試合や審判をする時に緊張し過ぎて力が発揮されないのは恐怖心で自らの力を縛り付けていたからであるという事に気が付いたのである。
 それはこの相手はきらいだ、いやだという日常生活で人を差別して好き嫌いして和解していない心の習慣性があった為にそれが対人恐怖となり、その恐怖心が肝心な時に私の本来そのまま自由自在であれば、発揮できた能力を縛って出ないようにしていたのである。

 私はそのことに気が付いてから、「今まで本当に人を差別して好き嫌いして申し訳なかった。人間は皆、本当は神の子でいい人ばかりなのにそういう所を自分は見ないで表面の悪い姿ばかり見ていた。これからはどんな人でもその本質の神なる善なる生命を拝み、よいところに感謝させて頂こう」という気持ちについになったのである。

 そうしたら私に一大革命が起こったのである。今まで苦手だと思っていた人を、その人を神の子と信じてその良い面を見るようにしたら、その人を前にしてもすらすら立て板に水の様に話すことが出来るようになったし、テニスもこの人とやるのはいやだな(これは何故、いやかと言うと、自分がミスをすることでこの相手に軽蔑されるのではないか、へただと思われるのではないかということを私が恐れるという意味でいやだったのである。)と以前は思っていた相手とテニスをしても失敗を恐れることなく伸び伸びと本来の力を発揮出来るようになったのである。

 「大調和の神示」にある「神は助けとうても、争いの念波は神の救いの念波をよう受けぬ」というのは本当である。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-08-02 22:38 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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