煩悩について

 昔から信仰を志す者に取って、煩悩というものの処理ということが大きな課題であったのである。
 煩悩とは色々あるかも知れないが、男女間の煩悩、特に男から女に対する欲情という煩悩がある。私はここでこんな事を告白するのは恥ずかしいのであるが、人一倍女好きである。異性を意識し出したのは小学生高学年だったと思うが、中学では全然そうでなかったが自分で言うのも何だが、高校に上がってから結構女の子にはもてた。
 私は女の子が好きで好きで仕方がないものだから、女の子がちょっと手を伸ばせば手に入るような感じがしたが女の子から好きだのつきあってくれだの言われても硬派ぶってつきあうことをしなかった。正直に言うと女の子とつきあう勇気が無かったというのが実情である。
 そして、大学に入ったが、私の通っていた立教大学は女の子が半数以上いたので彼女を作って思いっきりキャンパスライフを謳歌しようとして何人かの女の子とつきあったが皆、長続きせず全て私がふられる形で別れた。
 私は女の子が好きで好きでたまらなかったのである。そしてそれは私の女の子への煩悩が人一倍深いものであったからである。

 女性に対する煩悩、欲情というのは昔からストイックに道を求めている信仰者には大きな障害になっており、これを克服することが求道者の一大テーマになって来たのである。
 キリストは「女を見て、欲情を起こす者は既に心にて姦淫せるなり。」と仰った。私はその言葉に対して、そんな堅いこと言うなよ位に思っていた。私はものごとに縛られるのがいやだったから異性に対する煩悩は自然なものであり、適当に煩悩を抱いて、適当に欲情しても実際に肉体関係の過ちを犯さなければいいと思っていた。
 しかし、そうした精神的な煩悩だけでもそれを抱えて生活することはなかなか苦しいのである。

 何故、苦しいかと言ったら、煩悩というのは自己の生命を縛るものであるからである。実相(現象、肉体の奥にある人間と世界の本来完全円満な霊的姿)における既に無限に与えられている霊的悦びではなく、物質欲、肉欲により、あれが欲しい、これが欲しいと餓鬼のようにむさぼる心が煩悩である。
 それは既に満たされているという心ではないから、不安定であり、一時的な快楽はあっても、やがて、それが苦に変わる。ことに男女間はこの煩悩が起こりやすいのである。煩悩を捨て去り、相手を肉体ではなく、その肉体の奥にある神の生命と拝むがよいのである。そこに心の平安があり、本当の相手への思いやりがあり、異性同士でもお互い楽しいつきあいが出来るのである。
 
 それでは何故、夫婦間の夫婦生活を煩悩とは言わないかと言うと、それは愛情が元にあるからである。
 法律的にきちんと認められて夫婦になった男女はお互い一つの魂の半分同士である。一つの魂の半分同士が再び出会って、一つになる時、結婚となる。そこには深い、一つの魂としての切実な愛情があるので、その表現として、夫婦生活が行われるのであり、それが単なる煩悩と違う所である。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-08-06 20:55 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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