生長の家にも段階がある。

 生長の家の教えにも段階があるのである。昨日今日、生長の家に来た入門者と生長の家をやり込んで「生命の実相」に穿ち行った者に対して同じ話は出来ないのである。
 生長の家、入門者に対しては形式的な話がされる。夫婦調和せよとか親に感謝せよとか悪い事をするな良い事をせよとか。これらは形の教えであり、逆にこういう形を示さなければ初心者は入り込み様が無いのである。こうした形の教え、道徳的な教えから入って、修行、又、他の人を救う為の菩薩行に始めは励まなくてはならぬ。そうした行を徹底する中で何時しか「そのままでよい。そのままで神である」という生長の家の実相独在の教え、真理に到達する。そこまで来れば自由自在にそのままで自分の言う事、為す事、そのまま神であった事が分かる。それを解脱と言い、仏の境涯と言うのである。

堀 浩二
by koujihori | 2012-04-17 12:48 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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