良薬、口ににがし

  人生は我々の魂の修業の学校になっているのである。我々は単なる肉体という物質的存在に過ぎないものであるならば、この人生が魂の修業の場なんて考えは出て来ない。長生きしてたかだか80年とか90年の長さの人生を生きても死んでそれで終わりなら、出来るだけ楽をしてずるをして悪いことをして肉体の快楽を貪って生きおおせた方が得だからである。

 しかし、我々は肉体の奥に霊なる永遠不滅の神なる魂を持っている、というかそういう霊なる存在が我々の本体である。そして、その霊なる本体である魂が徐々に生長して、その内在の無限の素晴らしさ、完全円満さを徐々にこの現象世界に表現させて行くのが我々の人生であり、それは我々の完全円満さの表現の場であると共に我々の魂の修業の場である。それを人生学校というのである。

 そして、この人生で一見不幸みたいに見えるものは具体的な不幸ではなくて、これ全て我々の魂の修業の為の教材である。それは我々の外から来る具体的な不幸ではなくて、そもそも無限生長を欲する我々自身の奥底の心が造り出した問題である。だから、それは自分の魂の修業の為に丁度いいレベルの問題を造るのである。従って、この人生で出て来る問題はこれ全て我々に解決可能な問題だけなのである。これを称して、生長の家では「神様は決して解決出来ない問題を与え給わない。」と言っているのである。

 決して解決出来ない問題は出て来ないということは我々は何か問題が出て来た時に「もう駄目だ」とあきらめて、投げ出したり、それから逃げたりしなければいつかは必ずその自分に与えられた課題を解決出来るということである。
 出来ないのは出来ないと勝手に判断して、自分の問題から自ら逃げ出した時だけである。

 我々は人生上でつらいこと、恐ろしくて逃げ出したいこと等が出て来ることがあるかも知れない。
 しかし、こういう時こそ向上のチャンスなのである。その奥に無限に素晴らしい宝物が控えているのである。それは例外なくそうである。

 我々は何かの向上とかを目指して一つことを頑張っていて、毎日練習とか訓練を繰り返していても一向にうだつの上がらない状態が続くことがあるのである。
 スポーツや武道やその他何らかの道を目指して頑張っていても全然それが目に見える成果に結びつかないことがある。生長の家をやっている人なんかもそういう人がいると思う。一所懸命生長の家をやってもやっても悟れないとか不幸や病気が無くならないとかと思っている生長の家の人もけっこういるのではないだろうか。

 人生は学校であり、魂の修業の場であるが、それは単なる反復練習をしていればすぐにそれが直接、生長や成果に結びつくというような単純なものではないのである。それどころかやればやるほど分からなくなる、へたになるということもおうおうとしてあるのである。
 しかし、そうした中でも努力をたゆみなく継続していく中でぽっと突き抜けることがある。何らかのきっかけで本物をつかむのである。それが悟りであり解脱である。本物の既に素晴らしい、完全円満なる我々人間の実相が直接出て来るのである。
 そうなったら後はそのままでどんどん目に見える成果が出て、かつどんどん生長、進歩するものである。
 そういう本物を探し当て、飛躍的に進歩生長する直前は「丑三つ時は一層暗い」のことわざにあるように努力を継続する中で一番絶望的になる時である。もう駄目だと絶望的になって、努力を放棄したくなる瞬間であり、ものごとに真正面から立ち向かう勇気が失せて、逃げ出したくなる瞬間である。

 しかし、つらい思いをしてみじめな気持ち、絶望的な気持ちになる時はその奥にとても重要な真理を秘めているものである。そうした中で努力を継続して逃げないで自分が恐ろしいと思っているものに対して真正面から向き合って、立ち向かって行くことで、そこに無上に素晴らしい真理、悦びを見出し、魂は飛躍的に進歩する。

 「良薬口ににがし」である。自分がつらい目にあった時こそ、自分を最も進歩向上させてくれる教訓がそのつらい体験の中に潜んでいるのである。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-08-18 20:57 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : http://joyfulness.exblog.jp/tb/1575632
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
<< 小泉首相のやり方について 行動は結果である。 >>