良薬、口ににがし(2)

 前々回、人生は学校であるということを書いた。我々はその様にこの人生で一つ一つ学んでいるのである。
 そして、本当に学ぶということはそれは厳しいことである。甘い環境でノラクラしても大した学びは出来るものではない。厳しい環境、厳しい問題において我々の魂は飛躍的に伸びるのである。
 真に学ぶということはどういう事かと言ったら、単に知識的に真理はこうだと学ぶことではない。それは体験として、魂で学ぶということである。それにはどうしても失敗体験ということが大事になって来る。
 
 スポーツ、例えばテニスでは正しい効果的なフォームで打たなくてはならないが、その正しいフォームはどうやって身に付くかと言ったら、人から正しいフォームはこうだと言われて、その通り素振りで反復練習していれば本当に自分のものになるかと言ったら、あながちそうでもないのである。
 もちろん、反復練習は大事ではあるが、本当にその正しいフォームで自然に打てるようになる為には試合中、何も考えないで、今までの自分のやり方で思い切ってやって行く中でそれまでの打ち方、やり方ではどうにもうまくいかないという失敗体験をして、その時、初めてかつて先生から教わったやり方が大きなヒントとなって、正しいフォームを何となくインスピレーション的に体感した瞬間、「これだ!」と思って初めて自分の個性にあった効果的で正しいフォーム、打ち方が自分のものとして出て来るのである。

 同様に人生において、色々生長の家のような正しい信仰団体で説かれている真理を学ぶ場合、それをただ本で読んで「ああ、そうか。」なんて言っているだけでは自分のものになっていないのである。
 我々は自分の人生の中で体験して、失敗して、痛い目を見て、そこで初めて、生長の家で言っている人間神の子、無限力ということが「本当にそうだな」と肌で実感して、分かるのである。

 その為にはただ、のらくらして安易な道を歩もうという考え方では駄目なのである。この人生学校の中で自分に課題として巡ってきたことに対して、逃げないで真正面から取り組むということが不可欠である。
 「良薬、口ににがし」である。自分に取って、最も恥をかき、惨めな思いをして、実感した経験がその時の自分に取って、最も大切な素晴らしい事を理屈ではなく実感で教えてくれているのであり、自分に取って、最もきつく、厳しく感じられる課題の奥にその時の自分に取って最も必要で大切な生きた教訓が秘められているのである。
 そして、我々は人生学校の中で失敗体験をする中で本当の真理を体得するのであるから、失敗した自分を厳しく指摘してくれる相手というのは自分の間違っている部分を自分に如実に実感させてくれる相手であるから、その人は自分に大切な真理を教えてくれる恩人であるということになる。だから、この人生で本当の不幸、困ったこと、いやな人なんていないのであり、全て、その仮面をはげば、自分の可能性を引き出し、応援してくれる味方である。
 我々は実相においては既に無限に素晴らしい、既に悟っている神の生命であるから、自分が本当に間違っていたと心の底から実感すれば、間違っていた、うその自分が目覚め、悟った自分が出て来るのである。それが人生における学びである。
 だから、自分に与えられた課題に対して、苦手だから、恐ろしいからという事で逃げ回っていては駄目である。
 その恐ろしいと思っている課題や相手に対して顔を背けず、逃げずに真正面からぶつかって行けば、必ず自分の可能性を引き出せるのである。そして、その恐ろしい相手、困難で厳しい問題、課題の奥の本当の顔は神様のやさしい、やさしいお顔であったという事に気が付くのである。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-08-21 16:08 | 信仰 | Trackback | Comments(2)
トラックバックURL : http://joyfulness.exblog.jp/tb/1596686
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
Commented at 2005-09-01 22:09 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by koujihori at 2005-09-02 09:28
畑野様

コメント有り難うございました。そうですか。「である」が多くて読みづらいですか。貴重なアドバイス有り難うございます。これから気をつけます。自分では分からなかったです。

堀 

PS この間は楽しかったですね。あれだけ色々な事を話し合える友人は中々いません。
<< 瓦は磨いても瓦である。 小泉首相のやり方について >>