人を赦すこと

私は先日、ある会である人から大変、無礼な扱いを受け、私は表面は取り繕ったが内心大変憤慨し、家に帰ってその怒りを妻にぶちまけた。
 明日になったらこの会の責任者に注意の電話を入れてやろうとか思いながら、むしゃくしゃしながら就寝したのである。
 しかし翌朝になってみると、どうも体調が悪いことに気が付いたのである。昨日の精神の乱れをそのまま引きづっている感じであった。
  その時、私は自分の考え方の間違いに気が付いたのである。

 自分が如何に理不尽な扱いを受けたからと言って、それに対して憤慨し続けるならば自分を傷付けることになるのである。
 人を赦すことが大事である。他人が真理にかなわない事をしているからといってそれを良くしてやろうとして、その悪をつかみ、非難するという事をしても、非難された相手は決して良くならないのである。何故なら、こちらに相手の悪をつかむ心があり、相手も悪を指摘されることで自分はこんなに悪い者だと思うから、認識すれば、現れるの法則により、その相手の悪は決して無くならないのである。

 相手の悪をつかむ心は自分の精神をかき乱し、自分の脳髄にストレスを溜め、脳細胞、脳神経を破壊し、判断力、記憶力を減退させ、不安の心を強くさせる。
 相手の悪が見えるのはこちらに人間にはこういう悪があるという自分の心が映っているのである。相手を良くしたいのなら、相手の悪を見ずに、相手の良い面、即ちその人の内の善なる真の姿、本来の神の子の姿のみを心の眼で観るのでなくてはならない。
 その上でその場、その場でインスピレーション的に相手に適切な注意を与えてもよい。しかし、それは相手の悪を認めて、言っているのではなく、相手の悪は本来の姿ではないと悪を否定し、相手の表面の仮の姿である悪の奥に神に作られたままの善なる姿を肯定する心で言わなくてはならない。

 私はこういう人を赦す心になった時、私に非礼な行いをしたその人物も何故、そんなことをするのかということが何となく分かって来たのである。それはこの人は寂しいだけだったのだと思い、根は悪い人ではないんだと思ったら相手を批判する心も薄れていった。

堀 浩二
by koujihori | 2005-08-26 08:31 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : http://joyfulness.exblog.jp/tb/1634523
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
<< 罪は赦される(2) 瓦は磨いても瓦である。 >>