そのままでよい。(41)

 「そのままでよい」のである。何故なら、吾等は今そのままで神であり、完全円満であるからである。しかし、それは現象の事ではない。現象の奥の実相の事である。現象は始めからナイからそれでよい。実相のみあるからそれでよいのである。

 現象に実相が出てくる事が大事であるが、それは「実相は自分で出てくる」からそれで良いのである。
 私は現象的には完全に他人の幸福を悦べない部分もある。嫉妬の激しい部分もある。人の悪がどうして赦せない部分もあるのである。しかし、私はだからと言って「聖人君子の様に無理に振る舞ったり、自分の心をその様に良くしよう」とは考えないのである。
 そのままでよい。そのままでよい。寂しいなら寂しいでよい。理不尽を感じるなら感じるでよい。人の成功が喜べない自分ならそれでよい。それらはいずれ、自ずとより神らしい、大なる愛が出てくるのである。それは観世音菩薩の御働きを通して出てくる。だから、私はそれまで待つ。それでよいのである。それを無理して人の成功を吾が事の様に喜べない自分は駄目だ、無理してもそうしようなどというのは我(が)である。神は神する事により実行される。表現される。顕現するのである。それは時期が来れば自ずとそうなる。

 実相は自分で出てくる。そのままでよいのである。

堀 浩二
by koujihori | 2012-10-23 19:56 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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