生長の家の生き方は我(が)では出来ない。

 宇治でかつてご指導されていた榎本恵吾先生はよくこう仰っておられた。
 「実相は自分で出て来る。」

 これは先生によると最初にこう仰ったのは生長の家の初期の雅春先生の高弟の服部仁郎先生だそうである。(榎本先生は服部先生の指導を直接受けておられます。)
 実相は自分で出て来るのである。しかし、それは考えてみれば生長の家の教えそのものである。それは生長の家の神髄は「実相独在」であり、実相以外に何も存在しない。という事は何を為すにも実相が実相する以外ありえないという事である。それを
 「神様に生かされている」「神様に全託」と言うのである。神に生かされ、支えられ、導かれている。それが完全にそうであり我(が)の入り込む余地など微塵もない。それが実相独在という事であり、だから、神に感謝という事になるのである。
 実相顕現に我(が)が少しでも介入していれば、神に対する満腔の感謝という事にならない。少しは「オレがやった」という増上漫が入り込むのである。
 
 それを生長の家の招神歌では
 「吾が生くるは吾が力ならず天地(あめつち)を貫きて生くる祖神(みおや)の生命(いのち)。吾が業(わざ)は吾が為すにあらず天地(あめつち)を貫きて生くる祖神の権能(ちから)」
 と歌っているのである。

 従って、聖典「生命の実相」第七巻「生活篇」に出て来る生長の家の生き方は我(が)で頑張って出来るものではない。吾等の実相が実相する事によってのみしか出来ない。
 実相は自分で出て来る。その過程の中で自ずと生長の家の生き方が出て来るのである。

堀 浩二
by koujihori | 2013-02-08 18:00 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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