説教は無用である。

 人間は本来、神の子である。神は完全円満な無限に素晴らしい存在であるから、本来神の子であるという事は現象は不完全であっても、その奥には今、そのままで完全円満な不死不滅の存在であるという事である。
 だから、我々は人間を観るのにいつでも、そうした観点でいなくてはならない。例え、相手は表面的には悪い、不完全なものに見えても、その奥の実相(実の姿)は今、そのままで完全円満で素晴らしい悟りを啓いている相手であると観なくてはならないのである。

 生長の家ではその事をよくお札に例えて、表現される。使い古された一万円札はしわくちゃになり、人の手垢で汚れていても誰もそのお札の一万円の価値を疑うものはいない。要するに表面は如何に汚れていても、その内在価値は確かに今あるのであり、万人がそれを認めているからこそ、その一万円札は一万円の価値としてその機能を発揮しているのである。

 それと同様に人間の内在価値は完全円満の神の子であるから無限に価値があるのであり、我々はある人間がこんな犯罪を犯した、こんな不完全な肉体であるからと言って、その内在価値の完全円満性を疑ってはならないし、その無限価値は今、そこにあると認識して、これを扱わなくてはならない。

 従って、相手にいわゆる「お説教」をしたり、怒ったりする必要はないのである。相手が悪い事をするのは根っから悪いからではなくて、何か抜き差しならない事情があるか、それともその相手がまだ人間の実相は神の子で完全円満であるという真理を知らない為に平気で間違った残酷な事をしてしまうからである。

 であるから、我々はそうした神の道に合わない事をする人に対してはこれを悪い者と観て、一つ自分の説教でこいつを良くしてやろうとしないでその相手の肉体の奥にある完全円満で既に真理を内蔵している生命に対して、それに直接働きかけて、真理の説法をすれば良いのである。
 真理の説法というものはその同じ真理が相手にも宿り、これから相手に説く真理が相手に理解されうると思うからするのである。即ち、説法というものは相手の奥の生命の実相が完全円満であるという事を拝む行いなのである。
 そこにその説法を受けた人の内在の既に悟った完全円満な生命の実相が共鳴し、その悟りと完全円満さが表面に出て来るのである。

 しかるに相手を真理を解しないバカ者であると思って、口やかましく説教しても相手に宿る神性は出て来ない。

 説教は無用である。

堀 浩二
by koujihori | 2005-09-16 12:28 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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