生長の家の教えは人類を救う教えではなく全ての人が今そのままで悟っていると拝む教え

 生長の家の教えは人間は神の子であり、完全円満であるという教えである。そしてそれは未来の事でも最果ての地の事でもない。今ここ全ての人がそのままで完全円満な神の生命であり、悟りを啓いているという事なのである。
 私は生長の家は母親の影響で幼い頃から触れて来て、その後、大学生の時から組織活動に加わり、講師の資格も得て、勉強して来た。私は生長の家のみが最高の教えであり、キリスト教は罪の子と説くし、仏教も釈迦は妻子を持たず家も持たなかったので生長の家に比べれば完全でないと思っていた。だから、生長の家で人を救うのが先に生長の家を知った者の勤めだと思って、自分の周囲の人にも出来るだけ生長の家を伝道した。それは相手をそのままでは救われていない不完全な存在と見て、それを生長の家という最高の教えで救ってやろうという気持ちからであった。

 しかし、そうこうする内に私は心の平和を失って行った。それは
「生長の家のみが素晴らしいのであり、それを知らない者は救われていないどうしようもない存在であるから自分が生長の家で相手を救わなくてならない」という強迫観念で一杯となり、終いには夜も眠れなくなってしまったのである。
 それを宇治の榎本恵吾先生に出会い、救われた。先生の教えは
「全ての存在は全ての人はそのままで既に救われている仏であり、神である。そのままでよい」
 という事であった。
 
 私はそれまで実相世界は実相世界であり、現象世界とは別物であるから現象世界は自分が清めなくてはならない、救わなくてはならないという事で完全な二元論に陥っていたのである。だから
「生かされている」という神への満腔の感謝の信仰がすっぽり抜け落ちていた。しかしながら私は榎本先生の薫陶により生長の家の根本真理
「全ての人はそのままで救われている仏の子であり、神である。山川草木国土悉皆成仏と言う事、実相独在の真理」を悟る事が出来たのである。

 そうしたら手の舞い足の踏むところを知らずという歓喜の状態になり
「ああ、そのままで良かった。生かされている、満たされている、有り難い」
 という心境になる事が出来たのである。

 そうしたら全ての人もの事を見るにそれまでは
「自分が生長の家で救ってやらなくてはらない、そのままでは不完全で愚かなもの」
 と見えたのが
「そのままで悟っている完全円満な神の生命」
 と観じる事が出来たのである。

 そうしたら、生長の家だけが谷口雅春先生だけが素晴らしくて救われているのではなくて
「そのままで全ての存在は救われ、悟りを啓いており、救う必要のない尊敬すべきものである。」
 と分かり、全ての人達を神として仏として拝む事が出来る様になったのである。そして谷口雅春先生の法統を受け継いだ谷口清超先生もその法統を受け継いだ谷口雅宣先生も生長の家の大神の命の流れとして礼拝する事が出来る様になった。私が雅宣先生のご指導を祝福礼賛するのはそこから来ているのである。

 それからは世界中の至る所に素晴らしい悟りを啓いた人達を見いだし、アメリカのニールドナルドウォルシュの「神との対話」という本などは本当に素晴らしい悟りの書であると賞賛する事が出来た。

 人間神の子という生長の家の教えは
「生長の家だけが谷口雅春先生だけが悟りを啓いていて素晴らしくてその他の宗教、哲学、人類は不完全で生長の家で完全にしてやらなくてならない情けない存在である」という事ではないのである。

 生長の家の教えをそのまま受け取り、今そのままで全ての人が神であり、仏であると見いだした者は人類の至る所に同様の悟りを見いだして発表している者を見いだし、かつそれを賞賛し、拝む事が出来るのである。
 そしてそれこそが
「人間は神の子であり、完全円満である」
 という生長の家の実相独在の根本真理なのである。

堀 浩二
by koujihori | 2013-03-29 20:04 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : http://joyfulness.exblog.jp/tb/18442164
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
<< 完全を求めるなかれ 親に感謝出来ない全ての人へ >>