妻との大喧嘩で反省したこと

 今日は家内の誕生日である。47歳になったわけであるが私はこの家内に随分苦労を掛けて来たと思う。私が9年前に不眠症になった当時は本当に大変でその時は本当に親身になって支えてくれ、私は家内の献身的な内助の功が無かったら到底立ち直ることは出来ず、現在の自分はなかったであろう。
 しかし、私は昨日夜、些細な事でこの妻と大喧嘩したのである。私は妻たるもの夫の要求する所を素直に聞き入れるべきだという考え方にちょっと凝り固まっていて、昨日は妻が自分の要求通りにしてくれなかったということで衝突したのであった。
 私が何故、こんな考え方を持っているかと言えば、私の信仰する生長の家の教えに「夫は針、妻は糸」というのがあり、妻たるもの夫の言うことにはハイと素直に従うべきだと思っていたのである。
 しかし、いくら良い教えでもそれにとらわれたら駄目なのである。私は元々、ものごとは本来こうあるべきだという考えが何に対しても又、誰に対しても非常に強く、それでよく人を審いていたものだが、私のこうした心的態度は正義漢っぽいが実は非常に愛薄い心である。何故なら常に人を責め立てているのであるから。
 私はそうした性癖を昨日は妻に対して思い切りぶつけた。そして、それは就寝直前だったから頭が興奮して床に入ってから2時間以上寝付かれなかったのである。しかし、私はこういう時、一切の理屈を捨て、神様に全託することにしている。そして、いつの間にか眠りこけていて、気がついたら朝であった。そして、その目覚めた瞬間、昨日の事は既に解決しているような気がして、同時に妻に本当にすまなかったと反省したので朝、妻と顔を合わせた時、すぐに私の方から謝った。妻はすぐには赦してくれる感じではなかったがそれも当然だろう。
 私は生長の家の人でこんな経験をした人は他にもいると思う。つまり教えはよいのだが、それにとらわれ、人を審き、ひいては自分自身を縛ってしまう人がいるのではないかと思う。しかし、いくらいい教えでも我々人間がそれに縛られてはお終いであくまで生長の家の教えの根本は我々の中に神がいらっしゃるということ即ち人間神の子ということであり、我々が主人公であるということであるから、細かい教えにもとらわれず、自分で判断して、自分で行動したらよいのである。
 私の昨日の間違いは教えの表面的言辞にとらわれ、妻への本当の思いやりに欠けたということである。妻は介護施設で老人の食事を作る仕事の主任を任されており、近頃中々そこも色々大変で悩みを抱えていたようである。そんなこんなで私の要求にも素直に従えない所もあったようであるし、またお互いの意思の疎通に問題があったことも昨日の衝突の原因であった。そうした所を勘案して思いやることが出来なかった自分が悪いし、またこうあるべきだと相手に要求する前に相手は自分の鏡であるから自分の行いと考えを先ず正すべきであると感じた次第である。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-04-12 18:22 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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