修行について

 皆さんは皆、それぞれのお立場で日々、奮闘されておられると思う。毎日何の問題も悩みも無くて、ただのらくらと生きている人はいないでしょう。

 私は幼い頃、母親の影響で生長の家に触れ、毎日、就寝する時は母親に生長の家のお祈りをやってもらったものである。そのお陰で今の信仰を大事にする自分があると思っている。
 それはともかく、私は大学生になってから生長の家を本格的にやろうとして生長の家の組織にも入り、活動もして来た。そしてその中で色々紆余曲折もあり、精神的に行き詰まり、生長の家の宇治の道場に救いを求めた事もあるし、そして救われ、その他テニスや英会話や地域の活動とか様々な事をやって来た。
 その中で今、思うのは自分の経験の全てがこれ自分の魂の修行になっていたということ、無駄な経験が一つも無かったということである。

 生長の家では人間神の子ということが言われ、それが信仰の中心であるが、それを実生活に現す事、それを実相顕現と言うのだが、どうやって実相顕現し、我々の実相である神の子完全円満さを如何にして実現させるかという事が一大テーマになっている。神の子の完全円満さを現象的に実現させるということは自己の生命の実相を自覚すればよいのであるが、それを所謂「悟り」と世間で言うと思う。

 「気楽な悟り方」なんていう本もちまたには出ており、生長の家の人でなくてもこの悟りということには関心があると思う。
 生長の家では悟る方法として三正行というものの励行を勧めている。それは神想観という瞑想を毎日する行、そして「甘露の法雨」という生長の家のお経他の生長の家の聖典を毎日読む行、また、愛行と言って、生長の家の真理を人に伝える行、この三つの行を日常生活の中で地道にやっていくのが三正行というのであるがそれを本当に真剣にやっていけば自己の生命の実相を自覚する時が必ず来る。そして必ず実相顕現するのである。
 地道にこの行をしていけば、ある日突然、悟りとはこれだ、生命の実相とはこのことだと実感する時が来るのである。

 とにかく、生長の家以外の人でも、何らかの道を目指して、日々努力して行くならば、必ず神髄を究める時が来る。それは我々は実は神の子であり、それぞれが皆悉く無限の可能性を秘めている尊い存在であるからである。
 そして、特別何かの道を志しているという人以外でも人生上で自己に巡ってくる機会というものはこれ全て、自己の魂の修行の為の道具である。それは色々な人生上の試練、例えば病気とか、破産とか、離婚等々の問題であるがこれ全て我々の実相の完全円満さを磨き出す為の修行の為の練習台である。

 悟りとは特別な人だけの特別な心境ではなくて、万人のものである。そして、それを極めるのに特別な小難しい理屈とかは必要でないし、かと言って安易な道もない。ただ、毎日の自分の課題から逃げないで全力でぶつかる修行をせっせとして行けばよいのである。

堀 浩二
by koujihori | 2005-09-30 13:01 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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