罪ナシ。

 映画「戦火の勇気」では湾岸戦争時、アメリカ軍の戦車隊の指揮官が誤って味方の戦車を砲撃してしまい、その乗員を死なせてしまう話が描かれている。指揮官は軍の「誤砲撃は状況的にやむを得なかった」という判断でその責任を追及される事は無かったが内側に深い自責の念、罪の意識を抱き、大変な苦悩を抱える様になる。

 罪というものは本来存在しないが現象的には現れる。そしてその罪が余りにもうずたかく神の子の本性を覆っている場合は罪の意識というものは全く起こらない。神の子としての自覚の無い人間は平気で残酷な事をするのはそういう事である。
 しかしながら内なる神性が幾分、目覚めて来ると良心の呵責、罪の意識というものが出てくる。それは罪のごもくたが少なくなりその下の神の心の炎が罪のごもくたを幾分燃やす事で煙がもくもくわき上がるからである。その煙が煙くて仕方が無いのが罪の意識である。
 良心的な人間は自分の過去に犯した罪の重さに苦しむ。それはそういう訳である。しかしながら罪のごもくたがいよいよ少なくなりその下の「本来罪ナシ、完全円満」の生命の実相の炎がいよいよ勢いよく燃えさかって罪のごもくたを完全燃焼させてしまう場合は罪の意識は全く消える。それが悟りである。

 自分が神であり、この世は今そのままで神の国、実相世界であると悟れば自分の過去も罪が全く無かったという事が分かるのである。それは過去さえも今の自分の心の影であるからである。過去に罪があったと思うのは神ではなくて自分が生きて来たという迷いであり、それが我(が)である。その心の歪みの反映がそのままで神に生かされた完全な神の生であった自分の半生が罪まみれに見せるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2014-02-05 19:56 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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