生長の家の信仰について

 心を良くしようとするのではなく、自分が今、神であり、ここが神の国であると自覚しなくてはならない。
 完全円満で神に生かされていると祈りましょう、そうしたら良くなりますではなくて、今、完全円満であり、神に完全に生かされていて有り難い。ただそれだけなのである。

 その違いは天と地ほどの違いがある。

 生長の家の教えは「完全円満の実相世界を念じ、祈り、それを行動に移せば、潜在意識にその信念が浸透して、運命も健康も徐々に良くなる。」というものである。

 要するに実相世界は完全円満だが、それを現象世界に投影させるには我々の心が清まったものにならなくてはならないから心せよという事である。そうなると実相世界とは別に我々人間の心を良くしないと駄目だよと端的に言えばそういう事になるのである。

 だから、信徒は自分の心を清めようとする。良くしようとする。その為にこれでもかこれでもかと聖経読誦他の行をやる様にもなるだろう。そこに心の平和が失われるのである。

 それは実相は完全円満だがやはり、この現象世界を良くする為には自分がしっかりしなくてはならないという事になり、そこに我(が)が生じるのである。それは現象は自分が支えなくちゃいけない、良くしなくちゃいけないという事で結局、「私が自分が」という事になり神への全託の信仰がまるっきり無くなるのである。

 それは神を全く信じておらず、当然神に感謝も出来ず、そういう場合、親に全く感謝が出来ない。

 生長の家の信仰とはもちろん、実相独在と唯心所現であり、実相独在は「実相のみ存在する。現象はもちろん、心もナイ」という生長の家の根本信仰、縦の真理である。唯心所現は思ったら思った通りになるという横の真理である。もちろん、この二つは真理だが、根本真理はやはり実相独在という事である。
 完全円満の実相世界とは今の事であり、ここの事である。だから私の心なんてものはなくて実相の心があるだけであり、それは宇宙の最初からそうであった。従って自分の人生は最初から一つも間違いなんてものはなくて神の生そのものであったという事である。始めから我々は完全円満の世界にいて完全円満の神の子として完全円満の大生命である宇宙普遍の神に生かされていたのである。自分で生きて来た事など一瞬たりとも無い。
 要するにそれだけなのである。その当たり前の事に気がつくという事が悟るという事である。その悟りは我(が)の実在しない心が悟るのではない。実相の既に悟っている自分の実相生命の悟りが自分で目覚めて、出て来た悟りである。
 そしてその悟りが表面に出て来る事を生長というのである。それでは今までどうして迷っていたのかと言えば、それは迷いは悟りの基礎工事という事で悟りとかその他の素晴らしい実相の価値が現象世界に表現される際は稚拙な間違った状態から徐々に学びが進んで表現が高度になるという過程を経るからである。

 そして悟りが拓けて来るに従って、横の真理である唯心所現の法則が働いて、現象的に実相世界の素晴らしさが出て来る事になる。それが実相独在と唯心所現の真理が両立するゆえんである。

堀 浩二
by koujihori | 2014-10-17 14:26 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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