同情は無用である。

  世の中には可哀想な人がいて、心ある愛深い人はそうした人達に同情し、色々ボランティア活動とかして、そうした不幸な境遇の人達を救済しようという人達がいる。それはそれで大変尊い事である。

 でも、それがオレが偉くて、相手を見下して助けてやる、救ってやるという様な恩の押し売りの様になってはならないと思う。
 同情は無用である。何故なら現象はどうあろうともその奥の本当の世界、神様がお作りになったそのままの実相の世界では同情の必要な不完全なものは神様は一切お作りになってはおられないからである。
 同情というのは相手を不完全なものとしてこれを見下す事である。それは完全円満なものしかお作りにならなかった神様への冒涜である。神の恵みを素直に受け取っていない事である。
 そして、是非オレ様がその神様がやり足りなかった所を埋めてやろう、神様が完全にし損なった不完全な見下すべき可哀想な相手を救ってやろうと思うのである。しかし、その鼻持ちならない傲慢さはいつしか心の重荷になり、救わなくてはならない、整えなくてはならないという心の焦りになるのである。

 そこには心の平和はなく、むろん神様への全幅の信頼も無ければ感謝もない。常に自分がああしなくちゃならん、こうしなくちゃならんとあくせく動き回り、疲れ果ててしまうのである。

 何でこんな事になるのだろうか?それは神様がお作りになった世界ははじめから完全円満であるという真理に目を閉ざしているからである。神様がお作りになった世界、全ての存在、生きとし生けるものはそのままで完全円満であり、こちらが同情して助けて手当しなくちゃいけないものなんて一つもないという事を心の眼で観ていないのである。その完全円満の実相世界に目を閉じて観ていないから、その心の現れとして自分の周りに不完全な世界を自ら映し出し、不完全だ、可哀想だと嘆き、同情しているのである。

 この世界、この世界の生きとし生けるものは皆、はじめからそのままで完全であり、尊敬すべきものである。それを観じるのが生長の家で言う「感謝」である。

堀 浩二
by koujihori | 2005-11-06 10:39 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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