実相は自分で出て来るという事

 昔、ある生長の家講師が
「人間神の子無限力という事を我々が悟れば、唯心所現の法則が働いて現象的に肉体的に無限力も無限健康も出て来る。これは間違い無い。ただこの真理を悟るというのが難しい。これが問題なんです。」と講話していた。

 これは悟りというものが我(が)が行うものであるという考え違いからこういう考えが出て来る。実相というものがあって、心のレンズというものがあって、実相を観る心のレンズが歪んでいない真っ直ぐなものであれば実相の投影が現象世界に歪む事無く出て来る。だから我々はこの心のレンズを真っ直ぐなもの、要するに真理を悟れば良いというのが理論だが、これだと実相の他に心のレンズという存在を認める事になる。これは実相独在の生長の家の根本真理とは違う。

 心のレンズというものはナイというのが生長の家の真理。これは雅春先生が「生命の実相自伝編」で明らかにされている。

 なれば悟るという事はどういう事か?実相の他に心というものがあって、その心が悟るという事か?冒頭の講師はこの実相以外の心というものの存在を認め、ここを何とか悟らせようと思っているのではないか?しかし、雅春先生はそれがどうしても出来なくて苦悶した。そして、その後
「心もナイ、現象もナイ、実相のみがある」と悟られた。

 これはこういう事だ。実相というものは神であり、神というのは無限の叡智である。その無限の叡智が悟りそのものであり、従って、我々は神の子だからその実相は既に悟っているという事。現象的に悟るというのはその実相の悟りが表面に出て来るという事に他ならない。それが実相顕現であり、その実相の悟り要するに「今そのままでここがそのまま実相世界であり、自分は今そのままで金剛不壊の神そのものだ。」という自覚が表面に出て来れば、心の法則が働いて今ここそのままに実相世界が現成という事になる。それが実相顕現という事。

 そしてその実相は榎本恵吾先生は常に「実相は自分で出て来る」と仰っていた。
実相は無限の生長であり、それは自分で表現したくてしたくて仕方が無い。だから実相は自ずと表現を欲する。それが実相の現象化であり、実相顕現。しかし、それは初めはその表現の段階が稚拙である。しかし、それが経験を重ね、周囲の導きも相まって段々とその表現が高度化して来る。それが最初は迷いの段階の表現で、色々失敗もし、失敗の過程の中では本来でない悪も犯すがその中で色々経験する中で実相顕現がされていく。それが実相は自分で出て来るという事。

堀 浩二
by koujihori | 2015-10-15 12:40 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : http://joyfulness.exblog.jp/tb/22326065
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
<< 悟りとは 生長の家を学び続けるという事は... >>