型にとらわれてはならない

 以前も似たような事を書いたと思うが、またより深く実感したので書こうと思う事がある。それは如何なる良い事でもそれにとらわれてはならないという事である。それは如何に良い型でもそれに縛られてはならないとも言えると思う。

 私は割合インスピレーション的にこうしたらいいという事を思いつくことがある。それは心の持って行き方とかテニスのやり方とかその他、信仰的な事とか色々ある。それでその分かった時は「これが真理だ。これこそうまいやり方だ。考え方だ。」と思うのであるが、その事ばかり考えてそれにとらわれているといつの間にか他にすきが出来て、失敗してしまうのである。

 例えばテニスでフットワークを常に使っていればいいプレイが出来ると言うことが経験で痛感したとする。それが分かった直後はフットワークを常に気をつけて使う事で確かによいストロークもよいボレーも出来るのであるが、次の機会にいざ試合をしようとした時にその最近分かったフットワークの事ばかり考えているとどこに打ったらいいかとか相手がどの方向に打ってくるかを予測する事とかに対しての注意力が散漫になって結局試合もいい結果が出せないのである。
 何故こんな事になってしまうかと言ったら自由に臨機応変に対応する事を忘れて一つの型にとらわれたからである。
 自分が経験で悟った一つの型は自分に身に付いているから、次からはそう意識しなくても必要な時にその技というか型が自ずと使いこなせるものである。
 
 人間は神の子であり無限力であるがそれは一つの理屈に縛られた事をバカの一つ覚えの様に守っていれば出て来るものではなく、我々の中の無限の生命、智恵、力が状況に応じて自由に臨機応変に色々な技を使い、力を行使する所に出て来るのである。そこには無限の叡智が自分をして直接働くのであり、その知恵を使い、今、何をどうしたらいいかという事を自由自在に考えてやって行くのである。それが神の子無限力という事であり、その無限力が働くという事である。

 だから、如何に良い事でも一つの事、一つの型にとらわれてそれを心で握っていては駄目なのである。
 生長の家は創始者谷口雅春先生の書かれた「生命の実相」を始めとする聖典が沢山ある。そして熱心な信徒は「生命の実相」を熟読し、それを自分の生活の中で寸ぷん違わず実行しようと努力している真面目な人もいるのである。それは道を真剣に求め、実行しようというのであるから素晴らしい尊い事である。しかし、そんな事ではその人は持たないであろうし、その調子で家族も扱われたら家族も大変であろう。

 「生命の実相」の本に書かれた言葉は確かに尊いがそれにとらわれても駄目であって、本当の真理は自分の中にあるという事を自覚しなければならないのである。自分の中に生きた生命の実相があるのである。その生きた生命の実相が臨機応変に自由自在に発現した時、その人は無限の素晴らしさを発現した事になり、悦びと解放に満たされ、周囲の人にも悦びをもたらし、そして結果的にその本人の生き方が「生命の実相」の本に出て来る様な生き方になっているものである。

堀 浩二
by koujihori | 2005-12-06 12:38 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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