捨身について

 「捨身(しゃしん)」という言葉は広辞苑によれば、仏教用語で「修行・報恩の為に身を犠牲にする事、飢えた生物の為に身を投げ出したりすること」とある。

 広辞苑の定義というのはともかくとして、捨身即ちおのれの身を捨てるという事は悟りの極地の姿である。キリストは「人、友の為に命を捨てる。これより大なる愛はなし。」と仰った。生長の家の創始者、谷口雅春先生はこれになぞらえて、「人、国の為に生命を捨てる。これより大なる愛はなし。」と仰って、大東亜戦争(太平洋戦争)中に戦況が悪化した戦争末期、日本国を守る為に敢然と自らの生命を国に捧げた神風特攻隊の若者達を讃えたのであった。

 人間は神の子であり、我らの内に神の国がある。神の国、即ち人類が理想とする楽園というのはこれから人間の努力で少しずつ作られて行くものではなく(現象的にはそうであるが)、現象の奥の真実在の霊の世界では神の国、理想世界が理念として既にここにあるのである。
 それを自覚する事がいわゆる「悟り」である。そして、その悟りを人類に得させる為に神様が既に悟りを啓いた救世主的高級霊を地上に遣わし、それが釈迦となり、キリストとなり、マホメットその他の偉い導師となり、その救世主達が説いた教えが現在の世界三大宗教の仏教、キリスト教、イスラム教その他の尊い教え、宗教となっているのである。

 そして、それら宗教に縁あってふれた修行者達が毎日の修行で求めているものがこの「悟り」である。また、もっと広義で言えば、全ての人類が実はこの悟りを求めて、毎日の生活を送っているのである。本人がそれを自覚するしないにかかわらず。何故ならば、全ての人類は神の子であり、内に完全円満な神の国を蔵しているから、それを求めずにおれないからである。

 そして、人間は何回も生まれ変わり、その悟りを求め、又は深めて行くのである。自分の中に神の子の実相があり、神の国があるという事は生長の家の本を読めば、書いてあるから単なる頭の知識としてそれを得る事は容易である。
 しかし、単に知識として知る事と実感として悟る事はもちろん、全然別である。実感として悟る為には色々の経験を踏み、かつ教えの先駆者を師として仰ぎ、その人、又は団体の元で修行したりする事が大事である。それらの事を地道に長い間かけてやって行く内に自分の中に真理があり、神の国があるという事をこつねんと悟る時が来るのである。

 そして、そのこつねんと実感で悟った真理、自分は神の子であるという事が日を追って、その実感が深まり、生活の中で実際の生き方として出て来るのである。そして、その究極の生き方が正に「捨身」である。自分の事は一切考えない、自分の利益は一切考えない、自分の対面は一切気にしない、即ち結果、現象は一切考えず、与える事だけに徹するという生き方である。

 それこそ法悦の極地であり、無限力の吹き出しである。人間は誰でもこの境地を目指して人生学校を送っているのである。
 そして、大東亜戦争で国に生命を捧げると決意した青年達は一気にこの悟りの極地に到達したのである。鹿児島の知覧という町には大東亜戦争中、神風特別攻撃隊の基地があった。そこで悪化した戦局の中、特攻隊員達は出撃の命令を待っていたのである。
 その中で明日出撃が決まっているという隊員達の写真を私は見た事がある。それは隊員達が数人で子犬と戯れている姿であるがどう見ても明日死ななくてはならないという恐怖も悲壮感もその表情からは読み取れない。どの隊員も本当に済みきった、むしろ明るささえ感じる表情をしているのである。
 それはおのれの肉体を国の為に、故郷の為に捧げる事を決意し、自分が肉体を超えて、もっと大きな存在になるという事を悟った顔である。

堀 浩二
by koujihori | 2005-12-09 08:35 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : http://joyfulness.exblog.jp/tb/2338071
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
<< 便利さへの疑問 型にとらわれてはならない >>