訓練も実相が行う。

 野狐禅というのがあるでしょう?偽物による禅という事。生長の家の行をするのでも我(が)がやったのでは何にもならない。それは私がオレがという気持ちがあるばかり。一所懸命やってるつもりでも私が先祖を救っている。私が自分の潜在意識を浄めている。私が人類を救っているという事でこれは増上漫であると共に心に平和が無い。

 そして本当の行は内なる神が行うものでなくてはならないと言われますね。神が神する神想観。神が神する愛行。

 これが生長の家ですね。そしてそれこそが「吾が生くるは吾が力ならず。天地を貫きて生くる祖神(みおや)の生命、吾が業(わざ)は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能(ちから)」という事になる。

 これが実相は自分で出て来るという事ですね。実相は我(が)がああしてこうしてこうやって出すものじゃない。実相自らの力で出て来る。

 それこそが実相独在の生長の家の真髄であり、生かされている、満たされている、ただ有り難いという事です。

 笑う練習、人の良い所を見る訓練というのも実相が自分で出て来て本当にそういう訓練が大事であると言う自覚が出て来たら自ら自分にそういう訓練を課す様になる。それはやはり実相が訓練する主体であり実相が実相するという事になります。

堀 浩二
by koujihori | 2017-04-25 15:33 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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