凡庸の唄の素晴らしさ

 谷口雅宣先生の「凡庸の唄」だけれども今一つ分からなかった。だって昔から一芸に秀でる者は百芸に通ずと言われているし、人間神の子無限力ならその無限力を掘り出すのに必死になるのが本来であるのにこの凡庸の唄では下手の横好きを肯定している。

 でも自分の能力をやっきになって伸ばす事は利己主義につながるし、技術的な事の向上を追い求めるのは人間の自然の能力を損なったりまた物質繁栄追求にもつながるので環境破壊につながるという所までは理解出来た。

 でも私はここ最近、決定的な経験をした。それは先日、会社で従業員の夏の賞与を決める会議を私と社長と最近役員になったN氏(私より15歳年下)とでしたのだがN氏は会社の従業員の日頃の仕事ぶりとかを私などより遙かに熟知しており私は立つ瀬がなかった。私は経理、財務が主な仕事なので会社の機械メーカーとして主たる業務に関わる事が殆ど無い。N氏はその点、営業部長であり営業は設計とも現場とも工務とも関わるので会社の人達の働きぶりを良く知れる立場にはある。
 でも私は自分が余りに会社の従業員の事、そして機械メーカーとしての日頃の業務の流れを知らなすぎると実感した。
 私は日頃考えている事は生長の家の真理の探究、それから美術とかテニスとかの自分の趣味に関する事、そして日本の政治の実情や世界情勢、そして仕事は自分の業務に関わる事のみである。

 要するに日頃から自分の能力の向上や日常の仕事に関係の無い比較的レベルの高い知識の収集ばかりに目を奪われて日常的な周りの人の普段の状態とか会社の自分の業務以外の事に関して殆ど無関心だったのだ。

 要するに私は視野が狭かったのである。それは私が凡庸の唄に書かれている事、即ち日常的な事に目を向け味わうとか下手の横好きをいとわないで色々な事に興味を持つというのとは全く逆の生き方を今までしていたのであった。

 私に一番足りないのはそうした広く周りに目を向け、味わい思いやりを持つという事であったのだ。だから社員の賞与の査定の時に社員の事や彼らの日頃の業務の事も分からなかったのである。

 私はこの凡庸の唄に救われた。そうでなかったら私は会社の経営陣として失格だっただろう。

堀 浩二
by koujihori | 2017-06-23 12:39 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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