死ぬ気で生きる

 我々は一瞬一瞬を死ぬ気で生きなければならないのである。スポーツの試合では勝とう、勝とうと勝利という結果に執着すると体が萎縮して、却って試合に勝つ事は出来ない。自分を良くしよう、生きながらえさせようと生に執着すると却って、生を失うのである。

 生きよう、良くなろうと思って、自分の安全、自分の生をつかみ、安全に安全にとせせこましく生きて行く様では却って、生きる事が出来ない。能力を発揮する事は出来ないのである。何をやるにもこわごわと完璧を期して、自分の安全、生命を大事、大事と思って、生きるならば、何も出来ないのである。
 車を運転するにも余りにも慎重になって、もしかしたら人をはねるのではないか、路肩にぶつけるのではないかと戦々恐々とびくびくしながら運転するならば、却って判断力は失われ、スムーズな運転が出来ないのである。
 人に手紙を出すにもこれを確実に相手に届けなければならないと力みすぎるとポストに投函しても投函しなかったのではないかと不安を生じ、郵便局員に確認したくなるような強迫観念に襲われる。そんな事では当たり前の仕事は出来ないのである。
 そんな風に良くしよう、完全にしようとう気持ちが強すぎると却って、全ての事に自信が無くなり、力が発揮されないのである。
 自分が生きているのは自分が生きているのではない。神に生かされているのである。自分の能力が発揮されるのは自分の力によるのではない。神のお力なのである。常に一瞬一瞬、己の身を神に任し、捧げ、おのれを死ぬ気になって生きる時、却って本来の神に生かされた生き生きとした自己の生命力が発現し、素晴らしい力を発揮する事が出来るのである。
 
 現在、大相撲界では横綱は朝青龍というモンゴル人ただ一人で大関には日本人が何人か居るが、いずれも強烈な強さを持っておらず、朝青龍のライバルになりそうなのはこれまた外国人の琴欧州という有様である。日本人の最後の強かった力士は引退した貴乃花であり、それ以降は強い力士は日本人から出ていない。私はこの大相撲界の有り様に戦後の日本人の弱体化が象徴されていると思う。
 大東亜戦争(太平洋戦争)以前の日本人は現在の日本人より遙かに強かったようである。日露戦争では当時世界最強と言われたロシアのバルチック艦隊を打ち破り、地上戦でもロシア軍は日本兵の強さに手を焼いたそうである。また、大東亜戦争でも物資が尽きてきた後半戦は別として緒戦は英軍、蘭軍に対して、勇猛果敢な日本軍は連戦連勝したのである。
 
 戦後の日本人が何故、弱体化したかと言ったら、個人の権利、ことに人間を肉体と観て、その肉体人間の権利を第一にして、それを大事に守らなくてはならないという思想、風潮がアメリカの押し付けた憲法を中心に日本人全体に行き渡った為である。その為に日本国民が己の人権を第一に考える様になり、それが自分の安全とか肉体生命にしがみつく傾向になったのであり、それが自己保身の弱体精神になったのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-01-06 08:39 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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