そのままでよい(3)

 我々は内に完全円満の神の生命を宿しているから現象的にもそれを実現させたいという願望を本来持っているのである。それは自分をもっと良くしたい、向上させたいという願望である。それを持つから人間は努力するのであり、一所懸命生きるのである。

 しかし、それがこれでもかこれでもかという我(が)による頑張りにならない事が肝要である。それには正しい信仰を持つ事が大事である。人間を物質であると思う人間観を持っているならば、出来るだけ自分の肉体を生きながらえさせよう、出来るだけ自分に物質をかき集めよう、出来るだけ金儲けをしようという気持ちになるだろう。そうすると人間はいくら儲けても、富をかき集めてもまだ足りないまだ足りないと一種の餓鬼の様になってしまうのである。

 また、物質的な事を求めていなくてももっと高級な求道的な事、即ち悟りとか、また自己の能力の開発とか、また、信仰を深める事によって自己の悩みを解決しようとかしている求道者も何かと自分を信仰を良くしよう、悟りを深めよう、心を清めようと「これでもか、これでもか」となる傾向があると思う。

 しかし、「そのままでよい。」のである。迷いのあるまま、罪の意識のあるままでよいのである。それらの迷い、罪の意識で煩悶するそのままが我らの内の神のいでゆく姿である。無理に悟ろう、罪の意識を取り去ろうとしなくてよい。そんなのは我(が)である。

 我らが色々過ちを犯し、悩む中で自ずと我らの中の神性が出て来るのである。それが我らの中の神様が御自分で出て来るという事であり、それが「自ずと」という事であり、自律という事であり、自然という事であり、我らが神に生かされているという事である。

堀 浩二
by koujihori | 2006-01-12 08:38 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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