神の国は我が内にあり

 キリストは「神の国は汝らの内にあり。」と仰った。生長の家の聖経「甘露の法雨」には「汝らの内にのみ神の国はあるなり。外にこれを追い求むる者は夢を追ひて走る者にして永遠に神の国を得る事能はず。」とある。
 これは大変、深遠な真理であり、この上もなく有り難い事である。

 人は誰でも理想を追い求める。どんな人でも今よりもっと素晴らしい状態を望み、それを追い求めている。誰かが言っていたが、今、まさに自殺しようとしている人でさえ希望を求めているというのである。

 そして、正直な人、純粋な人ほどこの願望をストレートに現し出すものである。自分の中に「人とはこうあらねばならない。ものごとはこういう理想的な形で行われなければならない。」という基準が高い人はそれを実現させようと頑張るのである。しかし、現実は中々そうは行かない。それで現実と理想のギャップに悩むのである。それで大抵の人は適当に妥協し、人生こんなもの、現実なんてこんなものと思ってあきらめるのであるが、心の純粋な人、強力な個性を持っている人は現実に理想を求めて努力を注いで行く。

 それはそれでよい事だが余りにその傾向が強いと現実を批判するという事になって来る。そして、それが現実の相手、家族とか会社の同僚とか友人とかを批判する様になる。
 他人に対してはある程度、遠慮もあるし、相手が間違っているからと言って、ストレートに批判の心をぶつけていれば、組織内で相手にされなくなるから、ある程度、セーブするのであるが、ことそれが相手が家族、しかも自分より下の存在である相手に対しては自分のいらいらをストレートにぶつける事になる。
 家庭の中では一番立場が上の存在は父親であるから父親は外でたまったうっぷんを家で発散するという事になりがちである。その相手は奥さんだったり子供達であったりする。それで家庭内暴力、虐待という事が出て来るのである。

 しかし、これらは皆、神の国即ち理想的な状況というものを既に内にあるものとして感謝しないで外即ち現象に求める中からその現象の相手が自分の理想と違う場合、それに対して批判し、イライラするという所から起こって来るのである。決してその父親が根っからの横暴でひどい虐待者という事ではないのである。 

 内に素晴らしい可能性を秘めている人ほど、一時的にひどい状態になるのである。何故ならばその人の持っている基準、人間とはどうであるべきかとかその他の基準が非常に高い為にそれを求めようとするからである。しかし、大抵はそれが既に内にあるという事を悟らずに外部にそれを求めようとするのである。それが相手を過剰に責めたり、自分を必要以上に審いて神経衰弱になったりするのである。

 神の国は内にのみありーという事は本当の世界は自分の中にのみあるという事である。それは完全円満な世界であり、何の罪も不完全も穢れもない世界である。それのみが真実存在する世界であり、外界の世界、現象の世界は本来存在しない世界であり、それは我らの心の影に過ぎないのであり、不完全極まりない、罪だらけの世界である。
 だから、外界、現象世界に完全を求めてはならない。現象を良くしようとしてはならない。そんなものはどんなに良くしようと思っても始めから不完全であるという事を認識しなくてはならない。我らは完全円満な世界は我らの内にのみあるという事を悟らなくてはならない。それが真理の悟りであり、その認識が深まれば、内なる理想世界が自ずと外界即ち現象世界に拡がって行くのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-01-17 12:17 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : http://joyfulness.exblog.jp/tb/2543099
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
<< 自然ということ 長所、短所 >>