吾が業(わざ)は吾が為すに非ず

 私は会社で総務の仕事をしているが、経理、給与計算、庶務、社会保険関係等々仕事は多岐に渡っている。

 その上、現在、弊社でも社員の評価制度を構築しようと計画中である。私が立場上まとめ役を仰せつかっているのだが、これが中々雲を掴むような話なのである。一応、この手のガイドブックの様なものを毎日読んではいるのだが、こんなのが本当に弊社で実現出来るのかという気もするし、非常に前途多難の様な気がする。

 日常の仕事の上にこの様な難題を抱え、そうこうしている内に非常に気が重くなって来て自分にこんな計画がまとめられるのであろうかとか焦って来たのである。

 しかし、私の様な例に限らず、世の中は常に営みが為されているのである。何も行われなかったらそれは死の国であろう。この世界が生きた人間が活動している限り、様々な営みは果てしもなく行われて行くのは当然の事と言わなくてはならないのである。
 しかし、これらの営みを自分がやると思ったら大変なのである。全ての世の中の営みは自分ではなくて神様がやって下さる。何も取り越し苦労は必要ない。何故なら、本当の世界は神様の世界であり、全ての営みは神様が全知全能の力をもって遂行して下さっているからである。

 生長の家の招神歌(かみよびうた)という歌には「吾(わ)が生くるは我が力ならず天地(あめつち)を貫きて生くる祖神(みおや)の生命(いのち)、吾(わ)が業(わざ)は我が為すに非ず。天地(あめつち)を貫きて生くる祖神(みおや)の権能(ちから)」と歌われている。
 この歌の様に我らが生きているのは自分という我(が)が生きているのではない。神に生かされているのである。
 自分があれもこれもしなくてはならないと思い、あれこれ取り越し苦労するから大変に感じるのである。全ての事は神様がやって下さると信じ、今にのみ集中しておれば、全ての働きは神が自分と他の人を通して判断し、働いて下さる事を実感するのである。

 その事に気が付いた時、私は自分の両肩にかかった重荷がすうっと軽くなって行くのを感じた。神がその重荷を引き受けてくれたからである。
 そして、無理しないで今、当たり前の事を当たり前に心を込めてやって行く内に今まで何から手を付けていいか分からなかった仕事が段々と整理されて展望が開けて来たのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-02-14 17:37 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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