私はテニスを始めて20年以上経つが最近ようやく、一つの壁を突き抜けた感じである。私は家に卓球台があった為に子供の頃から卓球に慣れ親しんでいたので卓球とほぼ同じ動作であるグラウンドストロークに関してはテニスを始めて、大体3年位で自信が持てるようになった。
 しかし、うまく行かないのがサーブであった。私は大体、他の男性の様に余り、子供の頃、野球に親しんで来なかったのでボールを投げるという動作が苦手であった。それで野球のピッチャーのモーションとほぼ共通しているテニスのサーブというのが本当にうまく行かなかった。その事で私は20年以上悩み続けたと言ってもいい。
 
 それでテニススクールに通ったり、地元のクラブに入ったりして、コーチや上級者の指導を受け、毎日言われた通りのサーブの型を朝早く起きて、素振りして体に憶えさせていった。
 でも、いざ緊張する雰囲気の中での試合となると萎縮してしまって、うまく出来ず、ことに失敗が赦されないセカンドサーブでは練習した型などどこかにふっとんでしまって、ただ相手のコートに入れるだけの羽根突きのようなサーブになってしまうのであった。

 私はそれでも努力し続け、反復練習をやり続けた。そうしたら、私は自分のサーブが下手なのはサーブが苦手だ、下手だという苦手意識があるからであったという事に気が付いたのだった。
 この世界は思ったら思った通りになるという生長の家で言う「心の法則」というものがあるから、「自分は下手だ。下手だから練習するのだ。」と思っていればいくら練習しても却ってやればやるほど下手になって行くのである。

 それで私は自分の中にそのままで完全な無限の力と技があり、それに任せれば、良いサーブが打てるという事に気が付いた。そうしたら、その時から、すぐ私のサーブが素晴らしく良くなったのである。

 我々は何かの修行に入る時は先ず、形から入るのである。書道にしろ、テニスにしろ先ず、型を教わってそれを徹底的に反復練習する所から入る。そうして行く内に自分の中にそのままで完全な技、生命を発見して、それが自ずと働き、技を繰り出すという事を体験する。
 
 生長の家も同じである。生長の家も最初は本を読め、愛行しろ、神想観はこうやれと型から入る。それを徹底してやって行く内に自分の中で何もしなくてもそのままで完全円満(自性円満完全)の神の生命を見出し、こうでなくてはならぬ、ああしなくてはならぬという一切の型、縛りから解放される。
 そうなると生長の家の生き方が自然に力まずにやれる様になる。神想観は自ずとせずにはおれなくなるからやり、生長の家の本も何となく読まずにはいられなくなるから読み、愛行も自ずと当たり前にやる様になる。

堀 浩二
by koujihori | 2006-04-07 09:10 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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