迷いはナイ

 私はテニスをやっているが、テニスの技術的な事で悩んだり、迷ったりする事がある。それは主にサービスに関してであるが、サービスは昔から苦手意識があって、よく悩んだ。それに引き替え自信のあるグラウンドストロークに関しては全然と言っていい位悩んだり、迷ったりした事はない。

 だから自信があって得意であるということはまた、迷いや悩みもナイという事でもあると思う。それはともかく、サービスの事で悩む時というのはコートで実際に仲間とゲームをしている時ではなくて、素振りの時とか壁打ちで一人で練習している時なのである。

 即ち、一人でうじうじと考えている時に悩んだり、分からなくなったりしているのである。しかし、そういう場合でも一旦、コートに出て、仲間とゲームしたり、試合に出たりして対戦相手とやりあっているとそうした悩みとか迷いが自ずと氷解して、確かな上達のヒントやコツが自ずと分かるのである。要するに下手な考え休むに似たり、という事であろう。

 我々は迷いが出て来ると何とかその迷いから抜けだそう、もつれた思考の糸をほどこうとして考えすぎたりする事があるが、そんな事をすると却って、頭がこんがらがり、ますます分からなくなって、迷いの渕に沈んで行くのである。
 それは自分が元々迷ったでくの坊の物質の塊であり、それをうまい方向に導いてくれるのは自分以外の何か別の偉い人の導きとかヒントが無くては駄目であり、そんなものに巡り会うのは滅多な事では出来ないから、そのヒントや叡智を外に探し求めなくてはならないと何となく思っているからである。

 しかし、我らは表面的には迷いだらけ、悩みだらけの凡夫に見えていてもその本質は肉体や物質ではなく、神の子であり、それはそのままで完全円満、無限叡智なる全宇宙に拡がった神に生かされ、導かれているのであるから、われらの本質は今、そのままで完全円満の叡智そのものなのである。
 であるから、じたばた他に叡智を求めて、考えすぎたり、他人に聞いて回ったりしないでも今、そのままで無限の叡智そのものなのである。それを自覚すれば、それが現象的にも明らかになるのである。  
 であるから迷いが出ても、そのままでいろ。そのままでよいのである。そのままで本来迷い無きなり。うじうじ考え込まずにいざ、実際の生活に入って、実際に他の人と交わって行くならば、その様な迷いや考え込みはふっとぶのである。
 自分の迷いなるものをひっつかんでうじうじ考えずに積極的にどんどん人と交わり、実際行動して行く中で我らの中のそのままで完全円満の叡智そのものが自他との交流の中で自ずと発現するのである。

 その様に我らの本質は無限叡智なる神に導かれた神の子であり、この現象世界の奥には今、そのままでここに神の無限叡智が充ち満ちている完全円満の実相世界が展開しているのであるから、我らが心をしたばたさせないでそのままであれば、その本来の無限叡智が自ずと浮き上がって来るのである。
 
堀 浩二
by koujihori | 2006-04-20 12:29 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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