現象はナイ(2)

 我々は皆、現象の幸福を求める。健康でありたいし、家族同士仲良く暮らしたいし、お金も欲しい。だから、現象的に良い状態であれば、確かに幸福である。しかし、現象的な幸福のみが幸福だと思って、それに酔いしれていれば、その幸福が崩れた時の痛手は大きい。

 我らは現象をアルとして、それに幸福の基盤を置いている様では現象とは必ず崩れるものであるから、本当に幸福にはなり得ない。

 現象は我らの心の投影に過ぎないのであり、第一義的には存在しないのである。本当に存在するのは現象の奥の実相世界である。それこそが金剛不壊の真実存在世界であり、そこに住んでいる実相人間こそ本当の人間であり、それは完全円満で永遠に死なない神の子であり、それが我らの本当の姿である。
 実相独在である。現象は無である。実相は始めから完全であるから、我らは始めから、今、完全円満であり、それ以外に何の意味を持たない。私はこれだけの失敗をしました、完全になる為にはこれから、これだけの修行をしていかなくてはなりませんなんていうのは勝手に自分が創り出した自己限定であり、実相即ち神様のお作りになった本当の世界の立場から観れば、そんなものは何の意味も持たない。
 ただ意味あるものは我らが始めから完全円満であるという事であり、それがますます現象に展開するという事だけである。

 我らの実相はただ清浄無垢であり、完全円満である。そして、それを観じた時、自ずと今、ここにその完全円満の実相世界が展開している事が分かる。そうすると自分の具体的な過去、現在がそのまま、完全なものの展開であった事が分かる。それが現象が我らの自覚の展開であるという事である。
 
 その様に実相を観じた上での自然な現象肯定又は賛嘆ならよい。しかし、現象をアルとして、現象の良さに引っ掛かるとそれは無に引っ掛かった事となり、無とは罪であり、矛盾であり、悪の別名であるから、現象に引っ掛かった途端、自分及び他人の現在と過去が罪だらけ、矛盾だらけの不完全なものと観じられるのである。
 生長の家は現象に引っ掛かって、それをアルとして、それを信仰によって、良くしようとする教えではなく、このまま現象ナシ、実相独在を説く教えである。
 
堀 浩二
by koujihori | 2006-05-09 13:20 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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